遺された思い。

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遺された思い。

無事に京を抜けた。 小走りになって駆け抜けた。準備もままならずに出発したせいか、草履の鼻緒部分が足袋の上からでも分かるほどに血が滲んでいた。 少し休憩しようと小さめの石の上に座って休んでいると、目の前に屈んだ栄太郎さんが私の痛んだ足を持ち上げた。 「大丈夫?」 「平気です。こんなのよくあることだし」 こちらの時代に来てからというもの、慣れない履き物に靴擦れを起こしていたことは頻繁にあった。だからこういったことは慣れている。それでも栄太郎さんは割れ物を扱うかの如く私の足袋をするっと脱がせると、血が滲んでいた所へ取り出した軟膏を塗り始めた。 「栄太郎さん、そのくらい自分でできます」 「いいから」 なんとも居心地が悪くて、恥ずかしい思いを堪えながら栄太郎さんが塗り終えるのを待った。 「歩けそう? なんならおんぶしてこうか?」 「いいです! 歩けます!」 からかい気味に言われたその冗談に、全力で拒否すると栄太郎さんはふっと笑った。 *** その後堺に着いた私と栄太郎さんは、高杉さんが手配してくれた船で江戸へ向かうことに。船旅は長いもので、二週間にも及んだ。 高杉さんが手配した船は廻船で、その廻船が日本橋の河岸に着くと、今日はこのまま宿で体を休めようということになった。 「待ってて、宿に空きがあるか聞いてくる」 栄太郎さんにここで待つように言われ、宿屋の前でぽつんと待っていた。京にいた頃よりも人通りがとても多い。それが新鮮に思えてきてこれが江戸なのかと感心した。 もう冬がそこまで来ていた。そんな体感温度の中で待っていると、栄太郎さんが戻ってきて宿の空きがあったからここに泊まることになった。 宿屋の二階に上がっていくと、五部屋ほどがあり、その内の角部屋へと通された。見ると部屋はだいたい四畳半あるかないかくらいの広さだった。本当に眠るだけの部屋だ。 「不便だろうけど我慢して」 「大丈夫です。それより二人寝れますよね?」 「寝れるよ。それよりも一緒の布団で寝る?」 「いいえ! いいえ! それは間に合ってます!」 「何が間に合ってるの」 テンパってしまって変な言葉がでてきた。何が間に合ってるのかは自分でもよく分からない。 誤魔化すように私は布団を取り出して敷いた。もちろん間をきちんと空けて。お風呂に入りたかったけど、今日はそこまでの体力はない。長い間船に乗っていたからなのか体がまだふわふわしている感じだ。もう休みたいと、急いで寝る支度をした。 「もう何の抵抗もないわけ?」 ふと、そう(こぼ)した栄太郎さんの言葉。 「なんのことです?」 「目の前で着替えるの控えてくれない?」 「え? でも──」 そういえばいつからだろう。こうして目の前に栄太郎さんがいるのに平気で着替えをするようになったのは。小姓として同じ部屋で寝ていたにせよ、いつしか屏風でいちいち隠すのも面倒になっていた。それにここの宿屋にはそんな大層な物はない。 「長襦袢を着ているから丸見えじゃないし、栄太郎さんも気にしないと思ってました。気になりますか?」 「だからそれは……」 目の前で着替えるようになってからは自然と栄太郎さんは目を逸らすか、書物を読んでいるかだったから気にしていないとてっきり思いこんでいた。 「君は他の男の前でも平気で着替えるの?」 「え? そんなの栄太郎さんだけですよ」 「じゃあ尚更控えて」 「どうしてです?」 「君は襲われたいの?」 「え」 そこでやっと言っていることを理解した。それと同時にそれがどういう意味なのかも分かり、頬がボンと火がついたように火照(ほて)ってくるのがよく分かった。 「今後気をつけますから、じょ、冗談はよして下さい。もう寝ますよ」 そう言って行灯の火を吹き消した。
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