やくたたず●

認知症対応型通所施設に勤務し、4年近く。 軍需工場で砲弾を作ったと話す女性。 空襲で家財道具が全て焼けたと話す女性。 フィリピンで兄を亡くした女性。 戦争がもう少し長ければ、中尉になれたのに、と話す男性。 田端義夫の『帰り船』に亡き主人を思い出す女性。 『真珠湾の九軍神』の話をよくしてくれた男性。 シベリア帰り。 陸軍航空隊の戦闘機乗り。 B-29に撃たれて無くした 指の先端や足の銃弾貫通痕を自慢気に見せてくれた男性。 『加藤隼戦闘隊』を歌い出すと止まらなくなった。 大陸でトラックの運転に従事。 戦争の話になると、パニックを起こし手がつけられなくなった男性。 呉の海軍工廠に勤務。 修理に携わった船の事を静かに語った男性。 筆者が持参した、砲身のひん曲がった拙いニチモ30センチの、その船の模型を見て大喜び。 普段の物静かな口調を忘れ、興奮気味に各部位の名前を教えてくれた。 帰り際には孫より若い筆者に深々、頭を下げた。 船の名は、戦艦《大和》。 その男性は年の瀬も迫ったある寒い晩、《大和》の元へ。 認知症。 5分前にした食事も忘れ、トイレの仕方も忘れ、自分がどこに住んでいるか、家族の名や顔さえ忘れた人も多い。 にも関わらず残る、戦争の記憶。 今年も8月15日がやってきます。
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私の亡くなった祖父は戦時中陸軍の後方支援部隊として済州島にいました。 私が小学生の頃はよく当時のことを話してもらっていたのですが、今考えるとあまり話したくはなさそうな雰囲気でした。 当時すでに三十代だった祖父は直接実戦を経験しなかったそうですが、敗戦後帰国するまでにかなりの苦労をしたそうです。 済州島ですらそうなのですから、満州や南方にいた方々は想像を絶する苦難を味われたと思います。 認知症になりながらも戦争の記憶は決して消えない。それだけの経験をなされているのでしょう。 私達の義務はこうした方々の体験を後世に語り継ぐことなのかも知れません。 そして今の日本の礎として散っていかれた

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