奴隷の心得

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玄関の手前に、ほとんど物置小屋のようになっている部屋がある。 その中に、上に色んな荷物を置かれたそれこそ物置になっているようなグランドピアノがあったことを証はぼんやりと思い返した。 「別に構わねーけど…。20年以上は調律もしてねーから、まともな音出るかわかんねーぞ」 「え……証が弾くんじゃないの?」 「あれは母親の形見だ。実家に置いたままだと処分されそうだったから持ってきただけだ」 それを聞き、柚子はハッと言葉を飲み込んだ。 証を産んですぐに母親は亡くなったと、五十嵐は言っていた。 おそらく証の中に、母親の記憶などは全く残ってはいないだろう。 それでも母親が使っていたという物は側に置いておきたいのかもしれない。 そうしてたまにそれらを見て、亡き母の面影を追ったりしているのだろうか……。 柚子は慌てて首を横に振った。 「や、やっぱりいい。そんな大事なもの触れない」 「は? 別に構わねーよ。ピアノだって弾いてもらったほうがいいだろ。……それよりお前、夢ってピアニストかなんかか? でも音大じゃなかったよな……」 「え、ああ、まさか……」 柚子は苦笑して手をヒラヒラと振った。 「私……保育士になりたいの」 「………保育士?」 「うん。必修なんだけど、ピアノだけはどうしても苦手で……。幼稚園の頃は習ってたんだけど……ほら、習い事する余裕なんか無くなって、すぐにやめちゃったから」 「………………」 (………なるほど、な) 証は吐息してガタッと立ち上がった。 「ま、勝手にすれば。とにかく着替えてくるから飯の用意しろよ」 「えっ、食べてないの?」 驚いて柚子は顔を上げた。 「食ってねーよ」 証はネクタイを緩めながら寝室へと足を向けた。 慌てて柚子は立ち上がる。 「あ、あの、証!」 思わず呼び止めると、証はゆっくりと振り返った。  
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