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「帰らないの、寛(くつろぎ)さん」
私から机二つ分向こうにいる男が、そう尋ねた。
「その呼び方やめて」
彼の言葉に対して、私は己の中の最優先事項を伝える。
立ったまま体を折り曲げて、自分の机の中をあさっていた彼は、ゆっくりと顔を上げた。糸のような細い黒髪が揺れる。
「名字、間違えたかな」
「ううん、合ってる」
「じゃあ、なんで」
「嫌いだから。自分の名字」
ばっさりと告げると、彼は少し呆れたように眉尻を下げた。
「では、あゆみさん。学校が終わってから結構経つけど、帰らないの?」
「阿坂(あさか)くんこそ」
机の上に頬杖を付き、私は窓の外に視線をやった。
「だいぶ前に帰ったと記憶してるけど」
「うん、帰ったよ」
頷き、またも彼は机の中に手を入れた。
「忘れ物をしちゃってね」
あった、と呟き、阿坂くんは机の中から手を引き抜いた。私はちらりと彼を見やる。その手には、英語の教科書が握られていた。そういえば明日小テストをするって、先生が言ってたっけ。勉強するために忘れた教科書を取りに来たのか。真面目だなぁ。阿坂くんなら、たいして勉強しなくても大丈夫だろうに。
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