ある少女とある少年のある日の話

2/10
64人が本棚に入れています
本棚に追加
/10ページ
  「帰らないの、寛(くつろぎ)さん」  私から机二つ分向こうにいる男が、そう尋ねた。 「その呼び方やめて」  彼の言葉に対して、私は己の中の最優先事項を伝える。  立ったまま体を折り曲げて、自分の机の中をあさっていた彼は、ゆっくりと顔を上げた。糸のような細い黒髪が揺れる。 「名字、間違えたかな」 「ううん、合ってる」 「じゃあ、なんで」 「嫌いだから。自分の名字」  ばっさりと告げると、彼は少し呆れたように眉尻を下げた。 「では、あゆみさん。学校が終わってから結構経つけど、帰らないの?」 「阿坂(あさか)くんこそ」  机の上に頬杖を付き、私は窓の外に視線をやった。 「だいぶ前に帰ったと記憶してるけど」 「うん、帰ったよ」  頷き、またも彼は机の中に手を入れた。 「忘れ物をしちゃってね」  あった、と呟き、阿坂くんは机の中から手を引き抜いた。私はちらりと彼を見やる。その手には、英語の教科書が握られていた。そういえば明日小テストをするって、先生が言ってたっけ。勉強するために忘れた教科書を取りに来たのか。真面目だなぁ。阿坂くんなら、たいして勉強しなくても大丈夫だろうに。  
/10ページ

最初のコメントを投稿しよう!