第七抄

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『お嬢さん、僕は味方さ。斑尾君とレン君が動けないだろうと思って、迎えに来たんだよ。狂さんに鬼姫の事を教えたのも僕だからね』 簾が揺れた。 誰の手も触れていないのに、するすると巻き上がってその奥に人影が現れる。 人影はかなりくつろいで座しているようだ。 茜と視線が絡むと、相手はふわりと微笑む。 声の感触からしてまだ二十四、二十五ほどの男である。 漢民族が着る旗袍(チャンパオ)と薄紅色の着物が融合した奇抜な軽装。 その上にフード付きの黒羽織を着こなして座っている姿は、不思議にも彼に似合って見えた。首筋の辺りには芍薬らしき刺青がほんのりと浮かび上がっている。 『可愛らしいお嬢さん』 彼は身を乗り出して、茜に手を差し伸べた。 ――おいで、と。 肩にかかるまで伸びた赤紫色の髪。 細面の白い、中性的な顔立ち。 7ccc193b-43d4-4f35-9745-56c2b7b3a26e すっきりとした奥二重に、ぽってりした赤い唇がきゅっと笑みの形に動いた。 花の香が漂う女形のような美青年だ。 「あ……」 おっとりと微笑むような眼差しに彼女は抗い難く、言葉をつぐんだ。 勢い込んでいた分、拍子抜けしてしまってあまり強気な態度に出られない。 耳をくすぐるような声音が続く。 『さぁ乗りなさい』 言いながら、青年は伸ばした手を茜の額にかざした。中指と人差し指をたてて、印を成す。 彼の双眸が淡く紅梅色の光を宿した。 その視線に縛られて、彼女は凍り付いた。 ふっと茜の瞳から警戒の色が抜け落ちる…。 彼がもう一度ゆっくりと命じると、茜は人形のようにのろのろと言われるがまま、牛車にむかって足を踏み出した。 意識を失ってる狂も牛車の中に運び終わると、彼は地上に降り立つ。 月は天空で移ろう。 『やっぱり来てみて正解だったね。こんな所を闇雲に何時間も歩き回って帰れるはずがない。僕の知る近道で帰ろうか』 彼はこの山がどんな所か知っていた。山を包囲する強い念、普通の人間ならば入れるはずのなかった場所なのだ。踏み込めば、方向を誤る。 霊気がある二人でも、気力体力を消耗してくたくたになったであろう。 うらうらと樹木の間から霧の帳が、ゆらぎたつ。 しゅう。しゅううう。 霧はあふれて、とろりとろりと地面も這い、すべてを呑み込んでいった。 しばらくすると、両脇に天をつくような杉の木が峙(ソバダ)つ山道に変わる。 蒼い月影が落ちて、ゆるやかな道を下れば、向こうには木立を透かして街の明かりが漏れて見えていた。そこには賑々しい生活の音が溢れていそうだ。 『残念だったね、鬼姫様……次はどう出てくるかな』 くすっと彼は笑う。 少なくとも、鬼姫が奏でる狂宴はこれで終わったのだ。 そして、これからどんな形で来るか、誰にも分からない――……。 .
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