「幸福」を目指して生きれば必ず疲れる

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この世のあらゆる宗教では、人生の目的は「幸福」であると規定しています。 それは我々が「不幸」を決して望まず、「幸福」の為にしか進まないからだそうです。 しかし、この世の中はなかなか満足出来る「幸福」に辿り着いている人はいないのではないでしょうか。 その主な要因として「幸福」は、続かない、飽きてしまう、これをする事が「幸福」になるとは思えないからとその行動に踏み切れないといったような負が働いてしまう事があげられます。 また、我々には必ず「死」があります。この「死」という不快な闇のせいで、我々は「どうせ死ぬのにどうして苦労してまで生き抜かねばならないのか」と考えて落ち込んでしまいます。 そんな中で仏教では「絶対の幸福」を目指して🌕🌕せよと、またキリスト教では神の為に聖書を理解し規律的に生きよと、苦しむ我々に対して更に苦難なところへ引きずり込ませようとするのです。 我々が「幸福」を目指していながら、「苦難」を一度跨がずにはいられず、またそういった情報を得られない場所で生まれた人間には未来が無いというのは、誠に不平等かつ差別的で、不可解とも言えます。 「幸福」が人生の真の目的であるならば、「死」などと不快な闇を見せ付けるよりも、創造主や仏が両手を広げてその行き先を案内してくれる方が我々は生きやすいはずです。 「幸福」を人生の目的として生きる事は、絶望しか生み出せません。先に絶望がある「幸福」の人生など支離滅裂です。 宗教は、何故我々が「幸福」を願うのかさえも説明できないのです。そんな安易な考え方では、真理に辿り着けるはずがありません。
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