奴の標的

21/23
11389人が本棚に入れています
本棚に追加
/1260ページ
出鼻を挫かれたような感覚が、空気を気まずいものに変える。 一旦こうなれば、まず元の雰囲気に戻すのは至難の技だ。 少し離れていたが、それでもまだ近い位置にあった身体を数歩後退させた。 「……猫、ですかね」 疲れたような、脱力したような、苛立ったような。 何とも言い難い声音で、沖田は呟く。 猫……か。 「どうだかな。……私は喉が渇いた故、水を飲んでくる」 「はい……」 部屋を出ていく私を、沖田がこれ以上止める事はなかった。 凍てつく冷気を深く吸い込めば、鼻の奥がキンと痛む。 耳も痛むは動きは鈍るはで、私はなかなか寒さに利点を見出だせない。 暑さもまた然り、だが。 強いて言うなら、冷えた空気は何処か清廉潔白とした凛々しさを感じさせる事。 それと、数多の動物が冬の眠りにつく事……だろうか。 「まぁ、お前は別のようだがな、鼠男め」 「………」 藪の奥に潜む闇の色。 気配こそまるで感じさせぬが、そこには確かに膝立ち姿の山崎がいる。 断じて愛らしい猫などではない。 「それで、どうしたのだ?土方副長から言伝てでも預かったのか?」 「……いえ」 言伝てではないのならば、何用だろう。 まさか猫の鳴き声の練習をしていた訳ではあるまい。 言い澱む山崎の目は伏せられており、外面から感情は読み取れぬ。 ……もしや。 「山崎、遠慮は要らぬ」 「え……?」 「だから……、お前のしたいようにすれば良いと言っている」 そう告げれば、山崎は恐る恐るといった様子で頭を上げた。 その表情は普段の勝ち気なものではなく、戸惑いと不安が滲む迷子の幼子のようで。 私は思わず山崎の頭を撫でようと腕を伸ばす。 そうだ。やはり山崎は腹を下したに違いない。 だからこのように頼りなさげで、あまつさえ猫の鳴き真似という奇行に走ったのではなかろうか。 早く厠へ行けばよいものを。 「したい、ように……?」 「あぁ。だから早く厠へ、っ?」 山崎の癖のない髪に指先が触れた瞬間、山崎は私の手首を強く掴んだ。
/1260ページ

最初のコメントを投稿しよう!