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そうよ。あの男は逃げようとした。『背中を向けて』。獲物が背中を向けたときが一番襲いやすい。
でも、視覚は使えないのにどうやって……。いえ、音だけでも判断できるわね。正面と背中を向けたときでは、音波の進む方向が違うし、走り方で背中を向けているのがわかるわ。
だとすれば、山道で遭った熊の如く正面を向いたまま後ろ向きで歩けば。
「オォォォォ……オォォォォ!!」
「え……」
少女はまだ気づいていなかった。咀嚼はいつか終わるであろうことを。
咀嚼が終われば次の獲物を狙う。ましてや逃げることもできずに立ち止まっている獲物ほど狙いやすい獲物はいない。
少女の眼前にこの世の物とは思えないほどおぞましい腕と脚が振り下ろされた。
「……私、死んだの? 死って痛くないのね」
「お前、実は馬鹿だろ」
「何言ってんの! 私はこれでも……あぁっ!?」
少女の目の前で展開されていたのは、今さっきと同じ光景だった。ただ一つ違うのは、髪全体をワックスで掻き上げたような髪型と全身黒ジャージの見知らぬ男が巨大な脚と腕を持ち上げていたことだ。
正確に言うと、持ち上げているのではなく、上からの圧力をびくともせずに耐えていた。それも素手で。
「あ、あんた誰よ」
「大遅刻のヌカヅキだ」
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