ベーカリーとらやⅠ

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     広場の井戸の側に、黒い影のような男を見た時、ついに来たと思った。  それまでの浮かれた気分は吹き飛んで、今まで覚えた事もない力が喉を締め付ける。アタシは踵を返すと、男に見つからないよう、裏道を伝って帰路を急いだ。 『ベーカリーとらや』。ガラス窓に書かれた文字が見えてくる。  全速力で店に駆け込んだが、カウンターに求める人影がない。アタシの喉は益々苦しくなって、声の出ないまま奥への扉を突き進んだ。  襲い来る焦燥ではちきれそうになった時、中庭から彼が入って来た。洗濯籠を手にして、お帰りといつもの笑顔を浮かべる。アタシは彼を抱きしめ、胸の中に細い体を押し包んだ。離したら消えてしまうのではと恐怖に力が入り、驚いた彼がアタシの顔を見上げる。 「ユディ……ユディア、どうしたんだい?」  穏やかな水色の瞳を失う事など、もう考えられない。でも、あの言葉はどこまでも追ってきた。 ――いずれ、奪う者が来る。    *  *  *  サリを拾ったのは半年前、春も終わりの頃だ。  ファステリアのチャイ麦を買い付けての帰り道、トルマリにほど近い崖下の岩間に倒れていた。最初は死体かと近寄り耳飾りを取ったものの、死臭がしなかったので、脈を確かめると微かに動いている。放ってもおけずロバに乗せた。途中、死ぬかもしれないと思いながら、結局生き長らえてチェルキスに着いたのだった。  二週間生死の境をさまよい、目覚めた怪我人は記憶を失っていた。名無しも不便なので、サリと呼び、以来一緒に暮らしている。  サリは右目の上から頭にかけて大きな傷を負い、癒えた肉が盛り上がっている。それで右目が塞がり気味だが、元の顔はとても様相がよい。水色の涼しげな瞳に鼻筋がすっと通っていて、口元はいつも微笑んでいるように口角が上がっている。ほっそりとした体つきながら、引き締まった筋肉は鋼のようで、手足の長さも均整がとれて美しい。  前の男と別れて一年以上のアタシは、当然サリを欲した。拒んだら助けた恩を売ろうとしたけど、サリは素直にアタシを受け入れた。  アタシは虎族の女だ。しかも大柄なベルガなので、大抵の人間の男より背が高く、体格も良い。そんなアタシの相手を抵抗もなくつとめるサリを、最初、そちらの商売者かと思った。  
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