序章と一章の狭間

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 晴天の下、小春日和の朝。清々しい空気の中を歩く彼は、何の変哲もないただの農夫だ。  手には鍬を、肩には汗拭き布を。肌も小麦色で、初老の年齢になろうというのにとても健康的だ。周りからも、働き者として評判だ。本人いわく、作物を育てる基本はまず自分が健康かつ頑丈でなければならない、だそうだ。  その言葉のせいか彼には元気な妻子がおり、愛する愛娘も村で一番かわいいと評判である。  彼は左手に川を見て、右手に田畑を見て、自分が耕す畑へと続く道を歩いていた。  戦の最中であるというのにこの村だけ別次元のように平和だ。 「……おんや?」  ふと見た平和なはずの村の川の、小さな中州に、何かが流れ着いていた。  闇色のぼろをまとい、そのあたりだけが赤くなっている。遠目ではそれらが何であるかは分からないが、魚や鳥の類ではないことは分かる。だが、目を細めてよく見ると、それが何であるかが分かった。 「……こ、こりゃあ」  男は、手にする鍬を放り投げた。  わたわたと土手の緩やかな坂を駆け下り、河原を駆け抜けてざぶざぶと川へと浸かった。 「おーい!おおーい!だれかぁ!」  男は、流れ着いた小さな身体に刺さった二本の矢を引っこ抜き、肩にかかった汗拭き布で赤い鮮血が湧き水のごとく流れ出てくる場所、傷口を押さえた。 「女の子が流れついとるぞおぉ!」  男に抱き起こされた少女は、かろうじて生きていた。栗色の髪は髪留めを失って乱れきり、服は原型をとどめておらず、もはや服とは呼べないぼろきれと化していた。そして、その素肌は紛うことなく真っ赤だった。斬り傷、擦り傷、刺し傷があちこちに刻まれ、彼の手ぬぐい一枚では気休めにもならない。  体温も冷え切り、揺さぶっても何をしても、何の反応も示さない。息はひどく細く、今にも死んでしまいそうなほどだ。脈拍も弱々しく、注意深く調べなければ分からないほどに頼りない鼓動を刻んでいた。  そして、死にかけているにもかかわらず、その右手には、無理矢理引き剥がすこともできないほどに強く刀が握られていた。
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