尾張統一戦

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信長は岩倉城を攻め滅ぼし、戦後処理の実施が一段落した一月後にあたる4月に入り、論功行賞を兼ねた評定を開催することになったのである。 まず信長は此度の戦で援軍及び美濃への牽制を果たした犬山城の織田信清に対して、戦前の約定通り北尾張4郡の内、犬山に面した1郡を宛がったのである。 尾張は江戸初期の検知では総石高約55万石であるが、この時期では精々40~45万石程度であろうと推察すると織田信清に与えた領地及び今川方の息が掛かった分を差し引くと、信長が支配する石高はおよそ35万石程度となっていた。 それでも岩倉攻め以前から比較すると約倍増しており、織田家は信長含め諸将の意気は高かった。しかし、現実主義者の信長が各将へ与えた恩賞は最低限であり、今回の戦(岩倉攻め)で活躍した配下には平均して1割程度の加増がなされた。 それに伴って友春も俸禄140貫取りとなり足軽大将の序列では中の下程度に位置するようになったが、今までの序列を覆すものではなかった。 信長は新たな領内における治安の確保と逃散してしまった農民への帰参を促す方策として、家臣団による領内巡回の強化と豪農・豪庄への働きかけや水争いその他の調停を各地に派遣した行政官に裁量させる事でスピーディーに人心の安寧を図るように命令した。
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