序章-アラクノフォビアとコンバットナイフ

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 俺は両手で強く握り締めたコンバットナイフを見下ろしていた。  見下ろす事しかできなかった。  刃長20センチ以上もある武骨だがシンプルで強靭な鈍色の光沢を持ったナイフは、吸い付くように右手の中に納まりキリオンががっちりと人差し指を固定している。カッターナイフや包丁なんて目じゃない重厚な作りは頼もしさを感じさせた。  拳銃とまではいかないが、それでも歴とした紛うこと無き武器だった。銃刀法という規制を余裕で破ったコンバットナイフは、漫画や映画で見る大きな剣や黒光りする拳銃なんかより現実的で確かな力強さを感じさせてくれる。そこを俺は気に入っていた。  射撃訓練なんてしたことの無い俺には拳銃なんて扱えないのは分かっていたし、使う気は毛頭無い。ましてやファンタジー作品に登場する人間など真っ二つに出来そうなロングソードを担ぐ気も無い。実際そんなものがあっても大き過ぎて実用的でなく、邪魔で戦いにくいだけだ。  だからこそ、合理的で洗礼されたデザインと機能美を兼ね揃えたこのコンバットナイフに、俺は全幅の信頼を置いていたんだ。  でも動けなかった。  俺はただ、両手で強く握り締めたコンバットナイフを、見下ろす事しか出来なかった。  いつもはそうするだけで自分が強くなったと思えた。このナイフ一本で屈強などんな悪党どもも一網打尽にやっつける。そんな安っぽい妄想が頭の中に無限に広がった。  でも妄想は妄想でしかなく、現実は妄想より更に輪をかけて奇抜な突飛で不思議で途方も無く奇想天外で、矛盾しているが現実離れしたものだったのだ。  目線をコンバットナイフに伏せても、受け入れがたい現実は俺を見逃してくれやしない。  鼻腔を無遠慮に撫でる鉄臭い匂い。コンバットナイフの下に覗くコンクリの床を、上からドス黒い液体が塗り潰していく。いくら目線と思考を逸らしても、それが血液だと本能的に認識してしまい視界が眩む。  床を生臭く染め上げていくのが本当に血液だとすれば、尋常じゃない量だった。押し寄せるドス黒い波に、自然と足が一歩下がる。同時に目を背けたくなる光景から、顔を上げて逃れる。  間違った行動だった。そもそも俺は目を背けたくなる光景から目を背けるために俯いていたんだ。その状態から目を背けるとどうなるのか? 答えは簡単。また目を背けたくなる光景と向き合ってしまう。
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