~「幕末」~惨劇に至るドミノ

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◇Piece 1 ペリー来航から海防御用掛まで◇ 1839年 アヘン戦争 ↓ 1840年 オランダから清国敗戦の報が入る(オランダ風説書)。 日本にとってのこれまでの先進国は清。その敗戦を知った幕府の危機感は想像を超えるものだったと思われ。 (もし今第三次世界大戦が起きたとして、あの国があの国に負けた時のショック以上かと…まあその時に人類がどれだけ生き延びているか、という問題もあるが) この時、将軍徳川家慶、老中・水野忠邦@寛政の改革 1845年 海岸防禦御用掛(海防掛=外交、国防担当の藩主)を設置。徳川斉昭を海防参与に任命。 この時の老中首座・阿部正弘(福井藩主) サラブレッドな御曹司ながら、調整力や人材を見抜く力に優れていたと言われる人。 一足早く水戸藩の藩政改革に着手していた徳川斉昭の手腕を買い、謹慎を解いての任命。 他にも勝海舟、ジョン万次郎、岩瀬忠震など斬新な人材登用を行い、講武所、長崎海軍伝習所、洋学所を設立。藩による砲術演習の解禁、大船建造の禁の緩和など出来る限りの海防政策を行う→安政の改革 泰平な世であれば理想的な名政治家だったろう阿倍老中。ちらほら来る通商の打診を断り続けてるうちにXデー到来。 ↓ ↓ 1853年 マシュー・ペリー率いる東インド艦隊が空砲ドンパチしながら浦賀へ来航…という名の殴り込み。ド派手演出で掴みはおK!! ・ちなみに浦賀は江戸の水運の要所。あわや兵糧攻め、という二重の危機も。 「時間やるけん、開戦か開国かよ~け考えときやぁ!」とドヤりつつ一旦去る ・同年、長崎にもロシア艦隊が来るダブルコンボ ・阿倍老中、前代未聞の事態に朝廷にお伺いを立てたり、外様大名も含むすべての大名に諮問を行うという異例の対応。 しかし、朝廷も大名Sも当然、「イイネ!」などと言ってくれるはずもなく。 ・朝廷や裕福な外様の藩が幕府の方針に「口出しした(けど無事だった!)」という「アチャー」な前例を作る。 ・財政難から、藩に海防予算を出させる代わりに船や武器の直接購入を許可。 薩摩や長州は徐々に尊皇攘夷→討幕の藩として独自路線GO! ・当時は、「異人は娘の生き血を吸う」などなど数々のトンデモ話が信じられていた時代。孝明天皇すら曲解していたフシあり。 ・この年、将軍家慶死去、第13代将軍家定(篤姫ダンナ)就任も、期待値クリボー並。 1854年 そうこうしてるうちにペリーきっちり再来航。
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