860人が本棚に入れています
本棚に追加
/900ページ
その答えに、
桂は目を見開いた。
「何でも良かった。…“幕府”を潰せるなら…なんだって。…その為に何人死のうが、どうでも良かったんだ。…あの人の…“松陰先生”の“仇”を討てるなら。」
「…稔麿…。」
稔麿の瞳は陰りを帯びていて…
桂は、
悲しげに眉を寄せる。
「吉田 松陰-よしだ しょういん-」
稔麿や「晋作」の師であり、
桂にとっては師とも「友人」とも呼べる人物。
長州で「松下村塾」と言う私塾を開き、
学問だけではなく、
様々な教えを弟子達に説いた。
明るく冗談好きな、
いつでも笑顔が絶えない人物で…
誰に対しても対等であろうとした彼は、
皆に愛され必要とされていた。
中でも稔麿は、
そんな彼を心から尊敬し慕っていたのである。
…しかし…
それは「安政5年(1858年)」の事。
「幕府」が無勅許で「アメリカ」と不平等な「条約」を結んだ事から始まった。
松陰がこの不平等な条約に激怒したのである。
…そして、
許可なく勝手に条約を結んでしまった幕府に対し、
彼は「倒幕」を表明し…
なんと当時「老中首座」に就いていた、
「間部 詮勝-まなべ あきかつ-」の「暗殺」を計画したのである。
これに、
桂や晋作達は揃って反対した。
…その為、
暗殺計画が遂行される事はなくなったが…
その後、
松陰は捕らえられ「野山獄」に幽囚され、
やがて「江戸」へと送られる事になった。
素直に罪を認めていた松陰は、
どんなに重くとも「遠島」が妥当であったが…
なんと松陰は、
尋問の際に暗殺計画の詳細を自供して、
自身の「死罪」を主張するのと同時に…
自らの「思想」を語った。
それがその当時「大老」であった「井伊 直弼-いい なおすけ-」の逆鱗に触れ、
安政6年(1859年)「斬首刑」にされてしまったのである。
最初のコメントを投稿しよう!