第十章・幕開け

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  その答えに、 桂は目を見開いた。 「何でも良かった。…“幕府”を潰せるなら…なんだって。…その為に何人死のうが、どうでも良かったんだ。…あの人の…“松陰先生”の“仇”を討てるなら。」 「…稔麿…。」 稔麿の瞳は陰りを帯びていて… 桂は、 悲しげに眉を寄せる。 「吉田 松陰-よしだ しょういん-」 稔麿や「晋作」の師であり、 桂にとっては師とも「友人」とも呼べる人物。 長州で「松下村塾」と言う私塾を開き、 学問だけではなく、 様々な教えを弟子達に説いた。 明るく冗談好きな、 いつでも笑顔が絶えない人物で… 誰に対しても対等であろうとした彼は、 皆に愛され必要とされていた。 中でも稔麿は、 そんな彼を心から尊敬し慕っていたのである。 …しかし… それは「安政5年(1858年)」の事。 「幕府」が無勅許で「アメリカ」と不平等な「条約」を結んだ事から始まった。 松陰がこの不平等な条約に激怒したのである。 …そして、 許可なく勝手に条約を結んでしまった幕府に対し、 彼は「倒幕」を表明し… なんと当時「老中首座」に就いていた、 「間部 詮勝-まなべ あきかつ-」の「暗殺」を計画したのである。 これに、 桂や晋作達は揃って反対した。 …その為、 暗殺計画が遂行される事はなくなったが… その後、 松陰は捕らえられ「野山獄」に幽囚され、 やがて「江戸」へと送られる事になった。 素直に罪を認めていた松陰は、 どんなに重くとも「遠島」が妥当であったが… なんと松陰は、 尋問の際に暗殺計画の詳細を自供して、 自身の「死罪」を主張するのと同時に… 自らの「思想」を語った。 それがその当時「大老」であった「井伊 直弼-いい なおすけ-」の逆鱗に触れ、 安政6年(1859年)「斬首刑」にされてしまったのである。  
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