ふたつの夜

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 少女は走っていた。  細くなびく月色の髪は二筋の流星の如く海底色の壁に映え、そこだけがぼんやりと光っている。  ずっと風をきっていた肌は冷たくなり、元々陶器の様なそれはより白さを増している様に見えた。 「はぁ、はぁ……」  小幅に駆ける足に合わせてスカートが閃くと細い脚が見え隠れする。  白と水色の爽やかな風合いのセーラー服は宵闇に紛れ、灰と藍の重い印象に変わっていた。  少女は息を整える為に一度足を止めた。  昼間は太陽の熱を吸って心地良かった壁もコンクリート本来の温度に戻り、手を付くとそこから熱を奪われそうだ。  年齢の割にまだ幼い顔が古びた校舎の中から夜空を見上げた。  世界はまるで冷ややかなのに、その頬には一筋の温い雫が流れていた。 「見ーつけたァ」 「きゃッ」  再び下を向いて走り始めた少女は曲がり角から急に現れた複数の人間に頭からぶつかりそうになった。  目の前に立ち塞がった三人の女子生徒に、少女はまた一層泣きそうな顔になる。  この学校の校風にはおよそ似つかわしくない、派手な格好と髪型。  礼儀と規律を重んじる性格の少女とは無関係な領域の人間だ。 「ね、逃げ切れると思ってた?」  背の高い一人が言った。  残りの二人が嘲るように笑う。  少女は彼女達に見覚えすら無かった。  それなのに夕刻から今の今まで彼女達は少女を追い回し、家路につくのを邪魔していた。  中高一貫の名門校であるここは生徒の殆どが裕福な家柄――いわゆるお嬢様が多いのだが、中でも抜きん出て目立つ新入生が受ける洗礼がある。  少女は転入した頃に聞いたそんな噂を思い出していた。 「――ッ」  少女はすぐに踵を返そうと彼女達に背を向けた。 「待ちなよ」 「あっ」  ガッと腕を掴まれ、残りの二人に行く手を阻まれる。  完全に囲まれた少女は天敵を前にした小動物の如くじりじりと壁際へ追いやられた。 (どうしよう)  少女は必死に空いている方の手で背にしている壁をまさぐった。  運良く、指先がドアノブに触れた。 「!」 「あっ」  危機一髪。  少女は咄嗟に部屋の中に細い身体を滑り込ませると素早くそのまま彼女達の鼻先でドアを閉め、鍵をかけた。  浅い呼吸をしたのも束の間、ガンガンと扉を蹴る音に耳を塞ぐ。 「もう遊ばないのー?」 「ねぇもう飽きたよ。帰ろ」 「えー、面白くないなー」 「またねー新入生」 (早く、早く行って)  唱えながら、脅し文句を最後まで聞き届ける。  彼女達の声が段々と遠ざかり、辺りが静寂に包まれると、少女は力が抜けた様に膝から床に崩れ落ちた。 (助かった……)  はぁ、と大きな溜め息をつくと吐いた息が微かに白く揺れる。  いくらか落ち着くと初めてここが何処なのかと思い、半分乾いた涙を拭った。 「あ……」  月明かりに黒光りするピアノ、バッハやシューベルトといった肖像画達。  大きな壁時計は日付が変わる五分前を指している。  美月(ミツキ) カヨは真夜中の音楽室にいた。
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