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 春の嵐は突然やってくる。  入学式が終わったのを知ると桜の花は風に舞うように散りはじめた。  そして、明け方から降り始めた春雨がそれに拍車をかけたようで歩道には花がらが変色して積もっていく。  亜希は土日は久保と過ごし、昨日は入学式なのもあって一日中忙しなく過ごした。  それは久保も同じだったようで、昼頃に準備室を覗くと菓子パンを齧っていた。 「今日は菓子パンだけ?」 「しばらく忙しいから、これが生命線。手軽に食べられないと仕事が終わらないからな。」  久保は肩を竦ませて、また一口菓子パンを齧る。 「四月、六月は忙しいんだっけ?」 「最近は中堅になったから常に忙しいよ……。」 「――あらら。」  国語科準備室は久保のプライベート空間に近くて、その中に入れるのは唯一亜希だけだ。  久保は亜希に手を伸ばすと抱き締める。  卸したての白衣に皺が寄る。 「……仕事が滞るよ?」 「少し充電しておくの。」 「……もう。」  亜希は、ちょっと疲れた顔をした久保の頭を撫でる。 「――それ以上はタンマ。」 「どうかした?」 「止まらなくなる。」  亜希を上目遣いに見つめて、切なげな眼差しをする。  亜希は久保を小突いた。  忙しい中、この瞬間だけはゆっくりと時が流れていく。 (甘え度合いがアップしたかも……。)  ぼんやりそんな事を思いながら、昨日は国語科準備室を後にしたのだ。  今日から二、三日、久保は外出中で居ない。  主人の居ない準備室は、静かでちょっぴり淋しく感じた。  斜向かいのカウンセラー室に戻り、その扉に手をかけたところで誰かに呼び止められる。 「……進藤先生。」  声のする方を見ると理事長と、スプリングコートを手にした高津がいた。 「理事長はここまでで。」 「……ええ。」  高津はそう小声で言うと、ゆっくりとした歩調で亜希に近づいてくる。  ――優雅な足取り。 「こんにちは。」  高津は端正な顔で柔らかに微笑む。  そのとろけるような微笑みに亜希は見惚れた。 「……こんにちは。」  挨拶を呟くように返して、ぺこりとお辞儀をする。 「いらっしゃって良かった。あなたにもう一度、お会いしたかったものですから。」 「――私に?」 「ええ。」  近くまで来るとふわりとムスクの甘い香りがする。
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