恋ごころ。〔吉田目線〕

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今日も変わらない。 何が変わらないのかというと、目の前の現実は変わりないということだ。 文机に肘をつき、乱雑に置かれた兵学書を眺めていた。兵学書は所々破けたり擦れている。その隙間からはちらりと紙切れが覗いていた。 言わずもがな、“あれ”が最後に残した文だ。 『勝手に屋敷を出てしまい、ごめんなさい』 紙にそう書かれたそれは、楷書で書かれている。僕の字を見て読めないと言った“あれ”。筆も使い慣れないと言っていたから、わざわざ廻船問屋に頼んで珍しい鉛筆を取り寄せた。 その鉛筆で文は書かれていた。 確か晋作は以前に、“あれ”を奉公に出したいと僕に訊ねたことがあった。今回のそれも晋作の差し金もあるだろうが、やはり“あれ”自身の意思でもあるのだろう。 正直に言えば不快だった。 僕の知らないところで九一と画策して、まんまとそれに踊らされていたことが。 だから屋敷を勝手に出て行ったことは、不快な塊がいなくなって清々したくらいだ。 それなのに何故───。 何故、事ある毎にこの文を眺めてしまう? こんなのただの謝罪文だ。 “あれ”が屋敷を出ていってからは、この部屋にはそれに纏わる物が何一つとして残ってはいなかった。 唯一、“あれ”が置いていった文が残り香のようにこの部屋に漂う。
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