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 静かに目を閉じる。  微かに冷蔵庫のモーター音と、ベッド脇の時計の音が静かに響いている。 (……静か、だ。)  高津は亜希を抱き締めながら、まどろみ始める。  普段なら、目を閉じると世界に他に誰も居なくて「独りきり」だという思いが、音もなく胸に押し寄せてくるのを味わうのに、今日は壁の穴が埋まってすきま風が入ってくるのが塞がったかのように穏やかな気分だった。  あの胸にぽっかりと空いた穴がもたらす淋しさも、苦しさもない。  やっと手に入れた亜希はほの温かく、抱き締めていても嫌がる事無く、とても無防備に思えた。  ――柔らかな肌。  ――滑らかな髪。  そのどれもが以前手にしていたものと変わりない。  ――このまま、時が止まってしまえばいい。  このベッドの上だけは、時間も空間も世界とは切り放されていて欲しかった。 「……亜希、もう眠った?」  微かに亜希が首を横に振る。 「こんな事を言うのは、非道い奴だと思うんだが……。今日は幸せだ。」  ごそりと音をさせながら、亜希が高津の方を向く。 「……酷いヒト。」 「ああ、そうだな。」  ふっと微笑んで、亜希の頬に触れる。 「――君が帰ってきた。」  高津は囁く。 「お帰り……。」  高津の体に腕を回して、その胸に顔を埋める。 「――私、記憶を無くす前も、あなたを選んでた。」 「思い出してくれたんだ?」  こくりと頷く動きが胸元に伝わってくる。 「……あなたがエシャー展で言っていた事も何となく分かった。」 「――どの事?」 「……あなたを選んだのに、あなたは私を棄てたの。」  上目遣いに見つめてくる亜希の目は、哀しみに染まっている。 「……もう棄てたりしないよ。」 「本当?」 「嘘は嫌いだ。――嘘ばかり吐かれてきたから。」  母に「絶対に迎えに行く」と言われて、夕闇の中で待っていたのに来なかった事が何度もあった。  いつしか「棄てられまい」と、そういう雰囲気に敏感になったし、母ではなく近所の老夫婦を頼るようになっていった。  母を喪って、父に引き取られた後は心を閉ざし、周りが求める自分を演じて生きてきた。
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