雨の夜

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 もうすぐ6歳になる息子の成長を見守り、世話をすることが沙和子の存在意義であり幸福でもあった。 どこにでもある、普通の家庭。 悲惨な出来事も、暗いニュースも、すべてはぼんやりと現実味の無いテレビの中の物語なのだと、どこかで思い込んでいた。 それはきっと、その他大勢と同じ平凡な日々を当たり前に受け入れていたからに他ならない。沙和子は気付いていなかった。 ニュースの中で被害者として名前をあげられた人々も、沙和子と同じように平凡な日々を送っていた普通の人だったということを。 災難は、予想もつかない所からやってくるから、災難なのだ。    彼は、ずぶ濡れで雪平家の玄関に現れた。その時の沙和子にとって、彼は不幸の象徴のようだった。生まれて初めての恐怖が唐突に沙和子を襲い、その結果、今こうして男が運転する車の助手席に座っている。    泣きすぎて目のまわりが熱を持っている。少し浮腫んだまぶたに無意識に手を当てると、さっき切ったばかりの左手首がまた痛む。この状況が夢などではなく、現実なのだと念を押されているようで沙和子は悲しくなった。 車に押し込まれた直後、恐怖で小さく嗚咽を漏らしながら泣き続けていた沙和子だったが、不思議なもので、涙には際限があるらしい。 自分を泣かせる原因となっている男は何も言わないし、沙和子が泣きじゃくっていても知らんぷりだ。うるさいと怒鳴るわけでも、泣き止ませようと努力するわけでもない。 沙和子は段々と、泣いている自分がとてつもなく愚かなのではないかと思えてきたのだった。 恐る恐る運転席の様子を窺う。相変わらず無言で車を走らせる男の横顔からは、何の感情も読み取れなかった。 苛立つ風でもなく、暴力的でとげとげしい雰囲気を漂わせるような事もなかった。 ゆったりと座席に腰掛け、運転も荒いどころかむしろ丁寧だ。ごつごつした大きな手が柔らかく握ったハンドルを道なりに小さく動かす。その繊細な動きを見ていると、自分はタクシーにでも乗っているのではないかと錯覚するほどだ。 沙和子は余計に困惑するばかりだった。    男に手をひかれ飛び出した家の外は豪雨で、通りには誰もいなかった。いつもなら鬱陶しく思うほど飽きずに立ち話をしている年配の主婦の集団もいるはずがなかった。薄闇の中、沙和子は助手席に押し込まれるようにして車に乗り込んだ。誰かいたなら、助けを求める事も出来たというのに。  
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