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俺が何か言うより早く稲葉は言った。
「大丈夫・・・ですから」
「え・・・・?」
「私・・・・大丈夫ですから」
全然大丈夫じゃない顔で、稲葉は繰り返した。
「ごめんなさい・・・今日は帰ります」
踵を返した稲葉の腕をつかむ。
「わかった。送るから」
だから、1人で帰るなんて言うな。
稲葉は腕を振り払おうとして、急に諦めたように大人しくなった。
そのまま黙って車まで歩いた。
ドアを開けて稲葉を乗せ、運転席に座る。
稲葉はまだ、呆然としていた。
マンションの前で車を止めた。
「稲葉・・・・・・」
大丈夫か・・・?と聞いても無駄なんだろうな。 今のお前はきっと誰も寄せつけない。
「先輩」
「ん・・・?」
「さっきは・・・すみませんでした」
「うん・・・・」
しばらく沈黙が続いて、不意に稲葉が言った。
「愛せますか・・・私のこと」
「え?」
横を見ると、稲葉はフロントガラスに落ちる雪が溶けて流れて行くのを、じっと見つめていた。
稲葉は俺を見ていなかった。
「上司と不倫して、自分から別れて。それでも・・・突然顔を・・・ご家族を見ただけで・・・こんなに動揺して」
稲葉は言葉を切って、何かに耐えるように唇を噛んだ。
「もちろん愛せる」
なるべく優しく聞こえるように俺は言った。
できれば手を伸ばして抱き締めたかったけど、全身で稲葉は拒否しているような気がしていた。
愛せますか・・・と聞きながら、稲葉は俺を拒否している。
「今日は・・・優しいですね」
俺を見ないままで、稲葉は言った。
「優しくしろ・・・・って言われたからな」
やっと稲葉は少し、笑ってくれた。
「ありがとうございます」
小さな声で呟いて頭を下げ、稲葉は車を降りていった。
雪のちらつくこのホワイトクリスマスにお前は、あの人を思ってまたひとりで泣くのだろうか・・・・?
限りなく俺は無力だ。
車のハンドルにもたれて、舞い降りてくる雪を見ていた。
稲葉の笑顔が見たいと思った。
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