第1話

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「人はいつも何かになろうとしてきたのよ」  ワインの瓶を抱えながら、艶やかに彼女は説明した。 「物語も、音楽も、芸術も、現実の自分から離れて別の自分になるためのものなの。人類の文化はその願望から発展したわ。そしてその願望の最も純粋な形が演劇だと私は思うのよ。だってそうじゃない。演じる人間は何も変わっていないのに、少し服装をいじって仕草を変えるだけで別の人間の名前を授けられるのよ。繰り返すようだけど、見た目は何も変わってないのよ」  酔いの回った彼女は大袈裟に手を振りかざして自分の言葉を強調した。そこが彼女の強調したいポイントであることは明白だった。僕はその様子を静かに見つめていた。  僕は彼女の友人だった。昔から付き合いがあるだけで、決して恋人関係ではなかった。それに、彼女には確かに恋人がいた。その相手は既にこの世にはいなかったのだけど、彼女にとってはそのことは重要ではなかった。彼女は彼のことを愛していた。  彼女の彼氏が唐突に事故死したのはほんの半月前のことだ。葬式ももう行われて、彼女以外の関係者は日常生活に戻っていた。彼女だけがあの事故に囚われ続けている。この日僕の家でお酒を酌み交わすことになったのも、彼女が突然ワインを抱えて僕の家に乗り込み、話を聞くことを望んだからだ。僕は拒否することができなかった。  きっと彼女は彼との思い出を語るものだと思ったのだけど、予想は外れた。彼は自分の仕事の話をした。彼女は演劇の仕事をしていて、この県の小劇団に所属していた。例の彼と出会ったのもその劇団で、付き合い始めてからもお互い一緒の劇団に所属し続けていたと記憶している。だけど今、彼女の話に彼が出現することはなかった。  気が付くと彼女の語りは止まっていた。いつの間に話が終わっていたのかわからなかった。聞き逃したわけじゃないはずだ。彼女の話を中止したのは彼女自身だった。トランペットの演奏者がその口を離したときのように、彼女の話は空間に溶けて消えてしまった。 「夢を見るのよ」  半分瞼を閉じて彼女が新しい話を始めた。ワインを抱える腕に新たな力がこもった様に見えた。
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