忘れ得ぬ一夜

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 潮の香りが鼻先を掠めて、私は顔を上げた。 「あ……、海」  男の家は、海辺に建っていた。そうと意識すると、私のいるところまで寄せては返す波の音が聴こえてくる。この家の玄関先からも、朝焼けの海に白く光る波間が見えた。 「……ずいぶんいいところに住んでるのね」  私が出る時はまだ、男の部屋のカーテンはきっちりと閉められていた。あのカーテンを開け放てば、きっと男の寝室からもこの海が見えたんだろう。  コンクリート建てのマンションとオフィスを日々往復する生活の私とは、ずいぶんかけ離れてる。  毎日海を眺めて暮らしている男のことを、ちょっとだけ羨ましく感じた。 「でも……もう来ることもないわね、こんなとこ」  負け惜しみみたいな言葉を残して、私は、朝を迎えそろそろ動き始めたであろう街を目指した。
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