終章 ゆい

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「・・・伊右衛門様は。」 長い沈黙の後、結・・・”由比正雪”が、口を開いた。 「ん?」 「伊右衛門様は、これから、どうなさる御つもりですか?」 「そうさな。」 伊右衛門は、顔を軽く伏せ 「先ずは、お前と同じように名を変えねばなるまい。」 自嘲に見える笑みを、口許に現した。 「私が伊藤喜兵衛を斬った事実は変わらぬ故、な。」 「どのような、お名前に?」 「それは、追々考えるとしよう。」 積もり始めた雪は、周囲を白く染めている。 「で、お名前を変えた、その後は・・・」 「うむ。」 伊右衛門が、顔を上げ。 視線の先の中空に、何かを映した眼差しで。 「物語を、書こうかと思う。」 「物語、ですか?」 その眼が見ている物は何なのだろう。 正雪はそれを追って、伊右衛門と同じ場所に目を向けて見たが、何も捉える事は出来なかった。 「田宮伊右衛門と、その妻、岩の物語だ。」 正雪は、伊右衛門の夢見るような目に、視線を移した。 「後世に、どのような形で伝わるかは、分からん。或いは、話の筋自体も、変わってしまうかも知れん。それでも・・・」 「・・・」 「その物語の中では、未来永劫、伊右衛門と岩は、夫婦なのだ。」 「・・・伊右衛門様。」 「何だ。」 「結は死んだと申しましたが、今一度だけ、蘇らせて戴きます。」 「ほう。」 「その上で、申し上げたい。」 「何を。」 「岩様が・・・羨ましゅう御座います。憎い程に。」 「・・・」 それから暫くの時。 しんしんと降る雪だけが、時間を表していた。 「丁度、ここは分かれ道です。」 やがて、正雪が言葉を発した。 「私は、右の道を選びます。」 「では、私は左へ行こう。」 「では、御達者で。」 「ゆ・・・正雪殿も、な。」 伊右衛門のその言葉に、頭を垂れ・・・ いや。 泣き笑いの顔を、伏せたのかも知れない。 正雪は、そのままその場を後にした。 「・・・」 伊右衛門は、理由は無いまま、その分かれ道の分岐に、太刀を深々と突き刺し、振り向かず、歩いた。 それぞれ、交わらぬ道を。 雪は、ただ全てを覆うかのように。 風が、時折、その上を撫でる。 陽が、西の空に、落ちた。        [完]
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