プロローグ

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プロローグ

 あのころは、すべてが幸福だった。  自分が子どもであることをゆるされていたころ。  まずしいながら勤勉な父と、優しい母、甘えんぼうの妹がいて、ディアディンは自分のいる世界に、なんの悲しみも不安もいだいていなかった。  昨日の続きに、あたりまえに今日があり、明日も続くと信じていた。 「母さん! 遊びに行ってくる」  午前中は読み書きを教えてくれる塾へ行き、午後は畑仕事。  そのあいまに友だちと遊び、砦へ向かう兵士をあこがれの目でながめる。  木の枝の剣をふるっては、いつかは、おれも兵士になるんだと、夢を見る。  それが、ディアディンの平凡な毎日。  明日も、その次も、ずっと、そんな毎日が続くはずだった。 「待ちなさい! ディアディン。また、お館の坊っちゃんと遊ぶんじゃないでしょうね? あのかたは身分が違うんだから、もしもケガでもさせたら、ただじゃすまないのよ」 「だいじょうぶだよ。そんな危ないこと、あいつにはさせないって。第一、あいつ、木にものぼれないんだ。ケガなんかしようがないよ」 「坊っちゃんのことを、あいつだなんて……お館さまに聞かれたら、どうするの?」 「お館さまが、こんな小汚い下町まで来るもんか」 「もう、あんたといい、ミュルトといい、うちの子はどうして、こんなに聞きわけがないんだろう」 「ミュルトは、さきに行った?」 「行きましたよ。女の子なんだから、少しは裁縫でもおぼえたらいいのに」 「はいはーい。そういうことは、ミュルトに言って。じゃ、行ってきまーす」  ミュルトの行きそうな場所はわかっている。  丘の上の一本杉だ。  館からぬけだしてくるセオドリックとの、待合場所だから。  セオドリックは領主の息子ながら、ディアディンと気があい、毎日、会って遊んでいた。  最初は虫の名前も、木の名前も、魚の釣りかたも、男の子なら誰でも知ってることを知らないし、ちょっとビックリすると涙目になるし、貴族というのは変わってるなあと思ったものだ。  今ではディアディンといっしょに木の枝をふりまわして、兵隊ごっこをする、気心の知れた仲間だ。泣き虫なのは、あいかわらずだけど。 (あいつは貴族だから、大人になったら、あいつが指揮をとって、魔物や外国の軍隊から町を守らなきゃいけない)  しょせん、ディアディンは農夫の息子だ。兵士になりたいと言ったって、家族をすてて家を出ていくことはできないだろう。  いつかは自分も農夫になるのだということは、心の底ではわかっていた。  本物の騎士になれるのは、泣き虫のリックのほうで、自分じゃない。  でも、それでも、まだ、そのころは夢を見ていられた。  将来は未定で、今日と同じ幸福な毎日が続いていくことだけは変わらないと思っていた。  予測があんな形で裏切られることになるとは、思いもしなかった。  数年後、ディアディンは願いどおり、兵士になった。大人になるのを待たずして。  きっかけは、あの日——  ちょっとした偶然がかさなって始まった、不幸の連鎖。  ディアディンが、ほんの数分早く、あの場にかけつけていれば……。  あの日にかぎって、塾の先生に質問して、残ったりしなければよかった。  塾の帰り道、友達と冗談なんて言いあわなければよかった。  それとも、それとも……ほかに、もっと、しようがあったはずなのに。  ディアディンが丘の上まで辿りついたとき、セオドリックはミュルトと二人で、一本杉にのぼっていた。  いつもは怖がって、絶対にのぼろうとしなかったリック。  なぜ、あの日にかぎって、そんなことをしたのか。  想像はつく。  おてんばなミュルトがリックをからかって、せっついたに違いない。  ディアディンが来たときには、二人は高い枝の上で泣いていた。  二人を見て、ディアディンは、ぞッとした。ミュルトの体は枝からずり落ち、セオドリックの腕一本で支えられている。 「たすけて! ディアディン。ぼく、もう……力が……」 「待ってろ! 今、行く」  ディアディンは必死で杉の巨木にのぼっていった。ミュルトをつかむセオドリックの手がふるえているのが、遠目にも見えた。  夢中で上をめざしながら、ディアディンはずっと、心のなかで神に祈った。  お願い。神さま。僕が行くまで、セオドリックが持ちこたえて。  二度と自分のためのお願いはしません。  だから、どうか、ミュルトを……。  しかし、その願いはかなわなかった。  あと少しで手が届くところまで来たとき、ディアディンの目の前で、その恐ろしいことは起こった。  セオドリックの手が離れ、ミュルトは——  セオドリックが悪いわけではなかった。  聞けば、セオドリックの制止を無視して、一人で高みまでのぼっていったのはミュルトだった。  あんまり高くまで、のぼっていくミュルトを見て、セオドリックは引きとめるために追っていったのだ。  ディアディンが辿りつくまで、もうちょっとのところで力つきたのだって、わざとじゃない。  リックは精いっぱいのことをしてくれた。  でも……。  あの事故で、ミュルトは足が使えなくなった。腰から下が動かなくなったのだ。あれほど活発だった妹が、一生、自分の足で歩くこともできない。 「ごめんよ。ディア。ぼくに、あと少し……あと少し、力があれば……君みたいに……」  泣いて謝罪したセオドリック。 「おまえが悪いんじゃないよ。ケガをしたのが、おまえでなくてよかった……」  そう。それは不幸中の幸い。  領主の息子を歩けない体にすれば、ミュルトはおろか、ディアディンの一家は全員、縛り首だ。  自分の妹が半身不随になって、幸運——  世界に見えない壁があることを、このとき、ディアディンは悟った。  生まれながらの見えない壁。  その壁を乗りこえることはできず、むりに越えれば、もっとヒドイ理不尽が待ち受けていることを。  リック。おまえのことは、ほんとに好きだった。  おまえが、あのとき、ミュルトを全力で守ろうとしたこともわかってる。  なのに、なんで、こんなことになったんだろう。  ずっと、ずっと、あのころのまま、子どもでいられたらよかったのに。  それから四年後、十六のとき、ディアディンは町を出た。町にいることができなくなったからだ。  国境の砦に行って、傭兵になった。  他人に顔向けできないことをした者が、死ぬために行く場所と言われる、砦へ。  ディアディンは死ぬつもりだった。  多くの魔物が襲いくる砦では、死はいつ誰の上にも降りかかってくる、あたりまえのものだから。  もう二度と、自分は笑うことはないと信じていたから……。
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