731人が本棚に入れています
本棚に追加
/29ページ
疲れている自覚はない。
だけど、このところがむしゃらに働いていたし、倒れるまで動いていたいという思いもあった。
「そんな顔をお客様に見せてはいけない。今日のスタッフは余分に入れてあるから、山吹君はもう帰りなさい」
言い方は優しかったけど、今日の華やいだ日に自分は目ざわりでしかないと言うことだ。
気合だけが空回りして、鏡に映る姿は確かに亡霊のように表情がない。
愛の日に、自分だけが異質だった。
「ゆっくり休んで、また明日、いつもの山吹君に戻って来ておくれ。ね?」
帰り際、わざわざロッカールームに入ってきた北村は、ホテルの紙袋を渡して「ハッピーバレンタイン」と、ウィンクをした。
「バンケットシェフからのプレゼントだよ。いつもハーブの手入れをしてくれるお礼だそうだ。”ミントとローズマリーのダークチョコ”だと言っていたな」
「ありがとうございます」
「このワインはわたしから。と言ってもソムリエに選んでもらったんだけど。今日はバレンタインだ。甘いチョコで疲れを癒して、ゆっくりワインでも飲むといい」
「はい……。今日はご迷惑をおかけしました」
「迷惑なんかじゃない。皆君を心配していた。もちろんわたしも、朝からずっと気になっていた。一也を遠くへ行かせたと、恨んでいるかい?」
「いいえ。とんでもありません! 一也さんの仕事は心から尊敬しますし尊重もしてます。ただ、おれが弱いだけで……。自分がこんな弱い奴だったなんて思わなくて情けなくて、皆
に心配かけて、申し訳ないです」
俯いた日和の頭を撫でながら、北村はどこまでも優しかった。
「一也が帰ってきたら、二人でこれからを考えなさい」
「これからを……?」
「愛し合うにはそれなりのテクニックが必要なんだ。あの子にその力があれば、きっと君も泣かずに済むってことさ」
なぜだか嬉しそうに笑いながら、北村は手を振ってロッカールームを後にした。
最初のコメントを投稿しよう!