五 推理二

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五 推理二

 九月十五日、月曜日、午後、日報新聞本社。  午後三時過ぎ。大手町の本社に着いた。  二人が社会部に入ると、待っていたように編集長の相田はソファーに座った。 「まず、過労死の記事だ・・・。その後で聞かせてくれ・・・」 「わかりました」  理佐はパソコンを相田に渡した。 「まあ、いいだろう・・・。それで?」 「我々の取材結果と長野県警の調書に食い違いが・・・」  相田が岡田医師の過労死の記事に目を通した後、松浪はこれまでの取材結果を説明し、岡田会長を取材した録音を聞かせた。  兄・岡田幸雄の指示で醸造化学を学びはじめて間もなく、岡田幸一は小沼康子と出会った。康子との出会いは幸一の心を大きく揺らし、大学卒業後、岡田幸雄とともに岡田醸造を切り盛りして大きくするはずだった幸一の意識を人道的立場へ変化させた。  幸一が康子と結婚すると言いだした時、岡田幸雄は、小沼康子は、岡田醸造を共同経営する幸一の妻にふさわしくないと言って、結婚を破棄させようとした。  しかし、幸一は、酵素とバクテリアに関する分野が醸造産業の未来になると岡田幸雄を説得し、都内に残る理由を作った。  醸造化学を学んだ幸一はその後も大学に残り、生体化学の酵素分野とバクテリア分野を学びながら、医学部受験の準備をした。  幸一が医学部に入ると、岡田幸雄は、騙されたと思った。幸一が嘘をついたのでなく、小沼康子と康子の身内が幸一に医者になる事を勧めたと考えた。それ以来、岡田幸雄から幸一を奪い、岡田醸造から幸一を奪った小沼康子と康子の身内を、岡田幸雄は快く思っていなかった。  レコーダーから口汚く康子夫人を罵る岡田会長の声が響いた。  相田は溜息をつきながら何度も首を横に振った。  医学部に入った幸一に長男が生まれた。  医学部を出て医師免許を取ったばかりの幸一に、妻子を養う給料が得られないと知った岡田幸雄は、医院を開いて、幸一を岡田醸造の企業医に迎えた。生まれた長男、つまり、甥のために幸一の生活を少しでも楽にしようと考えた。  これで一件落着に思えた岡田幸雄の心に秋風が吹きだした。優秀な父親と違い、三浪して私立の医学部に入った長男は、卒業後三年たった今も医師免許を取れない。幸一の妻になった康子夫人への恨みが別な形で岡田幸雄に湧きあがった。 「馬鹿な相手を選ぶと一生後悔する!子供までが馬鹿だ!」  岡田会長の罵声が響き、再生は終った。 「これほど罵倒するのを聞くと、さすがに嫌になるね。  医師が死亡した日と、夫人が自殺した日の事を聞けなかったのか?」  うんざりした顔で相田が松浪に言った。 「ええ。会長のアリバイは不明です。取材できたのは奥さんに関する事だけです」 「これでは、会長が夫人を自殺に負いこんだと言ってるのと同じだな・・・・」 「確かに、会長は奥さんと奥さんの身内を恨んでいます。  しかし、その他の事はどう考えても本当とは思えません」 「と言うと?」 「先生がインターンの時、奥さんに長男が生まれました。  会長は、先生が妻子を養えないと考えて、先生のために医院を開いたと言っていますが、奥さんの実家は小料理屋です。食べるのに困ったとは思えません。  それに医師免許をとっても、すぐには医院をやれないでしょう」 「それなら、夫婦で長野へ移って、企業医や医院の医者になったのはなぜだ?」 「理由はわかりませんが、先生が長野に戻ったのが昭和五十二年で、企業年鑑によれば、この年から岡田醸造は酒造部門を拡張して岡田酒造を設立し、同時に会長が直接経営する岡田発酵を設立し、岡田発酵がグループの中心になりました。  岡田発酵は醸造に関する発酵技術の基礎研究を名目に設立されましたが、創業と同時にバクテリアと酵素の研究を開始し、薬品を手がけています。  先生が医院を引き継ぐと同時に、岡田醸造の企業拡大が行われ、岡田発酵を中心に企業グループ化してきました。  全てに先生が関係していたんじゃないでしょうか・・・」 「そうとは限らんだろう」  相田は上着のポケットからタバコをとり出し、タバコをくわえて火をつけた。 「・・・設立当初から岡田発酵は製薬会社でした。厚生省から認可を受けた薬品がいくつかあります。  認可を受けるには臨床データが必要ですが、長野市内で当時から開業している総合病院や医院に問い合せても、岡田発酵の臨床試験をしていません。先生の出身大学の付属病院でもしていません。  いったい岡田発酵はどこで臨床試験したんでしょうね?」  相田はタバコを咥えたままテーブルを見つめている。  松浪は話しつづけた。 「先生が生体化学の分野へ進み、さらに医学の道へ進んだ事に、奥さんが深く関係していたと見るべきでしょう。先生がいたから現在の岡田発酵グループができた。会長が考えたとおりに岡田発酵が拡大した今、先生と奥さんが会長から恨まれる理由がありません」 「でも、会長は今も、奥さんと奥さんの身内を恨んでるわ」 「会長と先生夫婦の間に、表沙汰にできない事があったとしたら・・・」 「動機は怨恨か・・・。  しかし、医師と夫人を死なせても、会長にメリットはないだろう?」  相田は咥えたタバコを手に取った。指に挟んだタバコから煙がゆっくりテーブルに流れている。 「僕もそう思います・・・。  あの日に奥さんが先生に同伴したのは、彼女が行かなければ解決しない事があったからでしょう。行く先は奥さんの実家のはずです」 「健ちゃん。どうしてそう言い切れるの?」 「理佐が、奥さんが身内に葬儀の連絡をしたのかなと言ったのがヒントになったよ。  奥さんは、会長が奥さんと奥さんの身内を嫌ってるのを知っていた。  会長と実兄が顔を合わせれば揉めるから、奥さんは実兄に先生の葬儀の連絡はしないはずだ。もしかしたら先生が死亡した事も知らせなかったのかもしれない。  だが、実兄は葬儀に来た。そして、すぐ追い返された。  招いた客にそんな事はしない。  と言うことは、実兄は八月二十九日の先生に何があったか知っていたが、先生の死亡を知らなかった。奥さんが先生の死亡を知らせなかったとも考えられる・・・。  実兄は理佐が長野県版のおくやみ欄を見たように、新聞で先生の葬儀を知って、急遽、葬儀に駆けつけた・・・」 「八月二十九日に先生が会っていた人たちは、先生の死亡を知らなかったって言うの?」 「そうだと思う。先生に関する取材でわかった事は、  「八月二十九日の夜、先生の心臓が悪化し、深夜、先生は車で長野へ帰った事。  先生夫婦の指定席券を使い、誰かが長野駅で新幹線を降りた事。  葬儀の場で会長は、先生が亡くなったのは奥さんのせいだと奥さんを罵り、葬儀に来た奥さんの実兄を追い返した事の三つだ。  これらから考えられるのは、もし先生の心臓が悪化したのなら、それはあさまが上野駅を発車する二十一時三十四分より前だ。  また、奥さんの実兄は八月二十九日の先生に何があったか知っていたが、先生が死亡したと思っていなかった・・・」 「先生の心臓が悪化したのなら、なぜ、医者に診せなかったの?」 「奥さんがその理由を知っていたんだと思う。だから、妙な自殺をした」 「よし、それじゃあ、取材に行ってくれ。  いや、僕も一緒に行く。いいかな?」  相田は理佐と松浪の顔を覗きこむように見て、二人の同意を求めている。 「それなら、お父さんと娘夫婦でくりだしましょうっ!」  理佐は相田と松浪の腕を取った。  その役も悪くないと松浪は思った。
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