田中家の忍び

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「壮太郎、行こう。無駄な体力の消耗は良くない」  三光鳥の囀(さえず)るが如き可憐な声が、慰める様に、彼の背に降り積もる白雪を撫でた。  山上壮太郎は一族の墓の前に座って、一時間も冬の寒い夜に、胡座でじっとしていたのだ。そしてその目はずっと、漆黒の墓碑に注がれていた。  墓の前に置かれた杯は一つ。たった一人の妹に向けられた物である。彼の妹……キクコは、五年も前に死んだ。紡績工場へ工女として働きに出て、二ヶ月も立たぬうちに病にかかり、彼の目の届かぬ場所で。  しかし、今日は命日ではない。……いや、命日といえば命日かもしれないが、それが目的で来たのでは無い。例えこの忍の服の中に白装束を着ていたとしても、だ。 「キクコ、ついにデカイ仕事だ。お前の無念晴らしたるから……待っとけ」  最後にそう呟いて、壮太郎は立ち上がる。その拍子に雪がなだれ落ち、彼の躰は、頭から墨汁を被せられた様に光を失った。 「すまんユキ。待たせた」  振り向き様の彼の目は、慈愛深き兄のそれとはかけ離れたものだった。武人の如き覚悟でも無い。忍びの如き無慈悲さでも無い。────田中ユキは、自分よりも弱いと分かり切っている筈のこの男に、初めて恐怖とも言える感覚を抱いた。  女忍として、当たり前の様に人を殺めてきたユキが慣れ親しんだ筈の、死人の目。理屈では無い、経験の感性が悟った。これほどに、敵に回して恐ろしい兵はいないのではないかと。 「あんた、いつになく似合っているよ……」  思わず、彼女は感嘆の言葉を漏らしていた。 「この後に及んで世辞はいらんよ」  口と鼻を覆う黒布の面を付けていても、彼の表情が変わらないのが分かる。この黒布の面は、別に今付けなくてもいいのだが、彼は忍び装束を纏う時には決まって付けていたのだ。普段の自分との決別の為だった。
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