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こんな事、どうやって気持ちに折り合いをつければいいというのだろう。
罪を責め立てて、お互い罵り合ったほうがまだましだと思った。
考えれば考えるほど、途方に暮れてしまう。
沙和子は、自分の目の前にいる哲司を見上げる。
哲司は、沙和子が見つめると、困ったようにそっと目を逸らした。
彼も、似たような事を考えたに違いない。
いくら相手が、自分を許すと言ったところで、結局は当の本人が自分自身を許せないのなら、何にもならない事なのだ。
不器用なふたりは、沈黙のまま歩き続け、あっという間に、マミのマンションの前に着いてしまった。
「遅くなっちゃったな。怪我の具合も気になるし、明日はゆっくり休んで…その怪我じゃ、帰れないよな…」
「ですね。さすがに、これでは帰れないですね」
俯いて、小さく笑った沙和子の頬に、哲司の手が触れた。
沙和子は驚いたが、恥ずかしさで、顔は上げられなかった。
「顔に傷なんて…」
赤く色の変わった唇の端に、哲司の親指がそっと添えられる。
悔しそうに呟く哲司に、沙和子はー胸の鼓動を気取られないよう細心の注意を払いー穏やかに語りかけた。
「すぐに治りますから、ね?」
「…沙和子が嫌がるから今すぐ警察に行ったりはしないけど、俺、あいつ探すよ。
見つけて、警察に突き出す。それで、その後、訊かれたくない話になったとしても、それは仕方ない。それよりも、沙和子に、またなんかされたらと思うと…」
哲司は屈んで、沙和子の顔を覗き込んだ。
そして、「怖い」と言った。
沙和子は、涙が溢れそうになる。
本当は、死ぬほど怖かったことや、事実を知って傷ついたこと、酷く惨めな気持ちになったことを、全部ぶちまけて、胸にすがりつきたい人は、この人なのだと、そう思った。
自分の頬に触れている、その大きな手で、抱きしめて欲しい。
怖かった、もう二度と会えないのかと思った。
そう言って、大きな背中に、腕を回せたら、どんなに救われることだろう。
こんな風に、小さな衝動に駆られる自分に、沙和子は、素直に驚いてしまう。
そして、そんなことは絶対にしてはいけない。
頭の中の自分が、そう囁く。
沙和子は頬に触れている哲司の手から離れると、「送っていただいて、ありがとうございました。明日、朝早いでしょう?気をつけてくださいね」と微笑んだ。
これが、精一杯だった。
部屋に入ると、待ち構えていたマミの質問責めにあったが、沙和子が正直に、あの雨の日の続きはなかったと答えると、マミは、「何やってるのよー!」と叫んだあと、盛大に肩を落とした。
「まあ、今日のところは大事件があったわけだし、仕方ないと言えば、仕方ないか」
マミは、ため息をつきながら、自分のバッグの中のスマホを取り出す。
カメラを起動させると、「ん、撮るから傷見せて」と言った。
「類くんに頼まれたから。西山田捕まえて、証拠と一緒に突き出すって言ってた」
「いや、でも…」
戸惑う沙和子に、マミは真剣な眼差しで口を開いた。
「私も、迷うところじゃないと思うわよ。あんな暴力、許せない。絶対に、なかったことになんかしたらダメよ。…本当は、今すぐ病院行って、警察行って…てのが、正解だと思うけど」
「はい…そうですよね。ごめんなさい、私…大事になるのが、怖いんです」
今となっては、もしも、警察から沙和子の自宅に連絡があって、あのふたりが、貴大と顔を合わせでもしたら…
その時、自分はどうすればいいのだろうか。
そんな事を考えるにつれ、恐ろしかった。
「…ほら、とりあえずシャワー浴びて、さっさと寝よ。明日は昼過ぎまで寝てようよ。…起きたら、ご飯、あたしが作るからさ」
照れたようにそっぽを向いたまま、ぶつぶつと呟くマミは可愛らしくて、沙和子は微笑んだ。
「はい…正直、ものすごく、疲れました…」
ひとりじゃなくて、良かった。マミが居てくれて、良かった。
今日だけは本当に、心からそう思った。
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