1・孫策

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 真っ黒い長江に朧な月が浮かんでいる。秋が深まってきているのだろう。夜気が冷たいと、船の穂先、船板の上で孫策(ソンサク)は感じていた。船が一定の音階で揺れる。今夜の水流は穏やかで、足元の音階は、まるで周瑜(シュウユ)が奏でる胡弓の音色ようで心地良くもあった。 「殿」と傍らに控える赤銅色の甲冑を着けた武将、太史慈(タイシジ)が声を掛けてくる。 「もう夜も更けて参りました。何かありますれば、私が対処致します故、殿は甲冑をお脱ぎになり、お休み下され」  孫策は自らの体を覆う白銀の甲冑を一瞥してから、太史慈を見た。いついかなる時も自分の傍を離れないこいつは、謹厳実直を絵に描いたような男だと思う。  そんな男がもう1人、先月まで傍らに居た。孫策は夜空を見上げた。宝玉の砕片を撒き散らしたように星が煌めいている。  王憲。身を挺し、自分を守り、死んだ忠臣の名を孫策は内心で呟く。  岩肌を剥き出した山が左右に現れる。眼前、先頭の船がその間を左に蛇行しながら、進みゆく。 「もう少しだけここに居る」 孫策は太史慈に言った。 「お前こそもう休め」  太史慈は無言で姿勢を正し、直立した。船室に戻り、休む気は毛頭無いらしい。
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