第1章

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   第八秘蹟    一  八月の海は幾万もの鈴を散りばめたみたいに輝いていた。  教会に続く未舗装の坂道を、小石を踏みしめながら登った。  首を締め付けるローマンカラーを緩めたい――その衝動を抑えるのに難儀した。  僕が彼女に出会ったのは、岬に建てられた古い教会だった。  そこには神父はいるが、信者はいない。そこを神の家と呼んで良いのだろうか? 愚問だ。  錆び付いた蝶番を軋ませて礼拝堂の扉を押し開ける。  目に入ったのは朽ちた長椅子に埃を被ったパイプオルガン。そして、聖母子を象った荘厳なステンドグラスだった。  僕は息を呑んだ。  かの巨匠の作品を模したのだろうか? 圧倒的な存在感――それだけが、この廃墟を聖域たらしめている。  無意識に、僕は胸元に手を当てていた。なぜだか無性に泣きたくなった。だが、僕は直ぐに現実へと引き戻された。 「悪いが、ウチは告解を受け付けていないんだ」  その声は高い天井に反響し、どこから発せられたのかは分らない。ただ、その声色に違和感を覚えた。 「ここが教会であなたが司祭であるならば、いついかなる時でも告解の要望を拒否できないはずです」  言わずもがなの一言。これは僕の悪い癖だ。 「なるほど」 「それに、僕は罪の告白に訪れたのではありません」  雑然と並べられた長椅子の間から神父が身を起こした。そこに寝ていたのだろう。祭壇を前にして随分な無作法だ。  神父は体を伸ばしながら、こちらに近づいてくる。 「あなたが斎賀友紀神父ですか?」 「いかにも」  聖職者らしからぬ長い黒髪が肩から背中に流れた。  身の丈は僕より少し高いくらいだろう。  片手にはワインの瓶。熟柿のようなアルコールの匂い。  そして、何より僕を驚かせたのは、その神父が女性であることだった。 「お、女? 何で?」  思わず、疑問が口をついていた。 「おや、意外かい?」 「ウチの会派は、女性を司祭へ叙階することを許していなかったはずです」  女性の叙階を認めない――男女同権、雇用機会均等の世においても、戒律で厳しく制限されているはずだ。 「確かに君の言うとおりだ。だが、現に目の前にいるものを否定しても始まるまい」  神父は床に倒れていた椅子を二つ立てなおす。  その一方に己が身を沈め、もう一方を僕に勧めてきた。 「私が私であることを神以外の誰に証明できるだろうか?」  彼女は口元だけで笑った。
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