海原十月 其の五

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 八十国の店を後にしたのは午後九時を少し過ぎた頃だった。 七月初旬の空気はこのくらいの時間が一番気持ちがいい。気温もそこまで高くなく、頬をなでる風がアルコールで火照った体を優しく冷ましていくのが感じられた。   僕は八十国の語ったこの相神原の話しを思い出しながらアパートへと続く道を歩いていた。まだ人通りもある時間だ。時折、コンビニ帰りのビニール袋をぶら下げたサラリーマンや部活帰りの学生の自転車が、足早に僕を追い越して行った。 ふと上を見上げる。自分の歩く道の左右にそびえ立つ高層マンションの頂が暗い空の中心に向かって伸びていた。 「加賀宮さんは、何故この街が相神原と呼ばれるかご存じですか」 バーの大きなガラスから眼下に広がる相神原の夜景を見下ろしながら八十国は言った。 「いや。地名の由来ってのはいろいろあるんだろうけど、転勤の多い仕事柄だからね。その土地の地名なんていちいち気にしたことはないよ」 僕は空になったグラスをくるくると回しながらそう答えた。 八十国はゆっくりとカウンターに戻ると新しいグラスを棚から取り出しながら「同じもので?」と聞いた。 「甘くないのがいいかな」 ジンジャハイボールは好きだが、アルコールとジンジャエールの糖分ダブルパンチは二杯目が美味しくない。それに、八十国が自分からドリンクを作ろうとするときは話しが長くなる合図なのだ。こういうときはゆっくりと長く飲めるドリンクが好ましい。 「かしこまりました」 八十国は軽く頭を下げると数えきれないほどの種類が並んだバックバーから「相神灘」と書かれたボトルを手に取った。 「日本酒?明日も仕事なんだ。深酒するつもりはないよ」 「はい。大丈夫ですよ。あまり酔われてしまっては、私の話しも耳に入らないでしょうからね。この相神原にまつわるお話ですから、やはり日本酒で雰囲気を出した方がよろしいかと思いまして」 そう言いながら八十国はロックグラスにキレイな球体の氷を一つ入れると日本酒を半分ほど注ぎ、ライムジュースを加えて僕の前に差し出した。 「サムライロックです。日本酒のクセをライムジュースのさっぱりとした酸味が中和して飲みやすいですよ」 「へえ。日本酒にもカクテルがあるんだな」  グラスに注がれた緑色の液体を口に含む。日本酒のフルーティーなアルコールの香りとライムジュースの酸味がマッチして、爽やかな後口が残った。
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