16人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
私の大動脈は先生の腕の中で脈打っている。
肺は滞りなく酸素を吸収している。私は瞬きをして、目の前の男を見ている。この両手はまだ動くし、足は走る事だってできる。
目を閉じて、息を吐き、死を想像してみた。
もしかしたら私はまだ生きているのかもしれない
『俺は受け入れられなかったんだ。彼女の死を。だから普通の顔をして教壇に立てていたんだよ。なんともない顔で、飯を食って、寝て、テレビ見て……』
先生は泣きながら叫んだ。
『普通の顔をして生きるのは、もう疲れた』と。
彼は笑顔で教壇に立ちながら、普通を演じていた。
昨日殺された風俗嬢の彼女の事なんか忘れたフリをして。
そしてその事実を受け入れぬ間に小さな亀裂が手に負えないほど大きくなっていたのだろう。事実を受け入れぬ間にも月日は流れる。
本当はめちゃくちゃに暴れたいんじゃないだろうか。
私もそうだった。普通の顔をしてスーパーのお惣菜を食べるのはもう嫌だ。
私と先生はお風呂から上がると2人でベッドに横になり、緑色の天井を黙って見上げた。
及川先生、そう名前を呼ぶと彼は私の右手を強く握った。
『先生、明日、目が覚めたらきっと私達は死んでます』
『うん…』
『それで、たぶん、生まれ変わってます』
彼はまた『うん』と小さく返事をすると目を閉じた。
静かな2人の部屋に2つの携帯電話の振動が響いた。
でも、気にはならなかった。
最初のコメントを投稿しよう!