沈黙と平穏。

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沈黙と平穏、僕の好きな言葉であり、僕の生き方だった。余計なことをしない、無視をして、波風たてずに生きる。出る杭は打たれるのなら、出なければいい。杭にはならない。なってはいけない。それが僕の生き方だったなのに、 「僕が殺しました」 取り調べ室、刑事ドラマで見かけるような、薄暗い部屋で厳つい顔をした男に言った。殺した、隣人を殺した。 「彼らが引っ越して来てから、いつも騒音に苛立ってたんです。僕は読書が趣味なのに、彼らのせいでまったく読めなくて、殺しました」 男が何か言ったが、聞き取れなかった。正直、どうでもよかった。なんでもよかった。彼女さえ、無事ならそれでいい。 沈黙と平穏を犠牲にしたって、彼女が一時の呪縛から解放されるならそれでいい。 「刑事さん。僕は死刑ですか?」 と、どうでもいいことを言いながら、僕はこの一週間の出来事を思い出した。 バスッ!! ドスッ!! 悲鳴と怒号、泣き声が隣の家から聞こえてくる。いつものことだ。僕はヘッドフォンから流れる曲を聞き流しながらペラリとページを捲る。うるさいと思うが、それ以上の感情はない。隣のクズが、同居人を虐待しているからとしても、僕には関係ことだ。隣の部屋に乗り込んでも、面倒を増やすだけなら、無視したほうがいい。 僕の家は家賃の安いボロアパートである。家賃の安さゆえか、隣の音が筒抜けになることは珍しくない。特にヒドいのは、僕の隣の部屋だ。夜になると決まって悲鳴と怒号のハーモニーがアパートを揺らす。一度、大家が苦情を言ったが逆ギレした男に怒鳴られて、すごすごと逃げてから、誰も彼らと関わるのをやめた。 怪我をしたくなければ、関わらない。知らないふりをする。いつの間にか決まった暗黙のルールは、今日も守られていく。 僕もその中の一人だ。 平日は仕事、休日は読書が僕のルーチンワークだ。友人達と騒いだり、恋人とひとときを過ごすのもいいかもしれないけれど、僕にはそういった相手がいないし、一人でいるほうが好きな僕には縁遠いことだ。あまり、興味もない。 その日は残業もなく、早く帰られたが、帰る途中で土砂降りの雨に降られたことが最悪だった。いつもは折りたたみ傘を常備しているが、うっかり忘れてしまった。靴下のグチュグチュという不愉快な感触に辟易しながら、鉄製の階段をのぼる。
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