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翻って彼はと言えば、この話がやってきた日からもうすっかり、気がクサクサしてならない。
断れないのは蛍のせいではないのだが、手近には彼女しかいない事もあって、格好悪くてもかなり不機嫌な顔を見せざるを得ない日々が続いている。
だいたい……早雲と2人で温泉というその響きが、いかがわしくてまず、いけない。蛍は、何を彼がそこまで嫌がるのか、その訳が今一つ腑に落ちていないようであるが。
……目に浮かぶようだ。
湯上りに洗いたての髪をあげて、襟足までほんのり染まった浴衣姿の蛍。
素足の踝が畳を踏むさまを見ても、もしそこにいるのが自分であるなら、思うさま掻き立てられるだろう事を、彼は、容易に想像できる。
ましてや通算7年のおアズケを食ったまま、蛍を彼にさらわれる寸前の早雲が、である。なんの心算もなく、このような温泉旅行に彼女を気軽に誘ったりするわけがない。
まず、彼が早雲なら、そのような事はあり得ない。
少し飲ませて。美味しいモノを思いきり食べさせて。
彼女が、ぽぅっとなっているところに、早雲得意の相手を霧の中に招くような話術で目くらましなどされれば、蛍などひとたまりもないに違いない。
薄暗い畳の部屋の上に並べて敷かれた寝具などがあって、そこにはたりと蛍が寝かせてしまいでもできたならば、きっと、後はもう一気だ。
椿の花を茎から落とすより、尚、早かろう。
……と、そんな事がありあり浮かぶから堪らない。
なんとかして阻止したいが、上手い手は一向に浮かばない。
いっそ彼がついて行けでもすれば良いのだが……いや、やはり、それは無理だ。
今でこそ蛍とともにならば、マンションの庭先など早朝に2人で歩くコトなどができるようになってきた彼ではあるが、いかに蛍と2人とはいえ、飛行機や新幹線などに乗り、人でごった返す駅や空港を歩き……なぞ、想像するだにゾッとする。
正直なところ、彼はありとあらゆることのすべてを、今は、自分の立っているこのマンションの、半径1キロ以内くらいで済ませてしまいたいのだ。
こればかりは4年を共に過ごしてもう身にこびりついて皮膚の代わりになったかさぶたのようなものだ。無理に剥がすと身まで削げて血が滲む。時間をかけて自然に剥がれ落ちるのを待つしかない。
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