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               蛍が、ひととき、早雲の元へ戻ることになった。  約束していた里帰りがなかなかないままであるのに業を煮やして、とうとう召喚状を寄越してきたのである。  予約の取れない事で有名な指宿の老舗旅館、しかも、3泊4日という破格の連泊の誘い。  旅館であるのに、部屋はたった4室らしい。  どの部屋からでも、美しい庭が望めて、個別に露天風呂まである。その上、毎朝毎晩、違う山海の美味が食べられるとなれば、蛍はもう、グラグラだ。  交通事故で両親を失い、天涯孤独となった蛍の事を……実に、7年。早雲が保護者として慈しみ育てて来たのは、けして伊達や酔狂ではないということだろう。蛍がどこをどう攻められたら弱いか、腹立たしいほどに熟知しきっている様子である。  だが……早雲の仕掛は実は、これだけではない。  彼女にこの誘いをけして断らせないため、更にあの男がその宿を用意した経緯として蛍に聞かせた話が、また、凝っている。  元々、宿を用意したのは福岡の有名画廊、福岡『六波羅』の千堂氏。 九州の山奥に隠棲する孤高の陶芸家、早雲が東京で個展を開催するにあたり、主催となった画廊である。  ただでさえ偏屈な伯父、早雲が世話になっている人物である事は、蛍も良く知っている。  この千堂が本当は接待のためにとった宿が相手方の我儘で無駄になり、今、ホトホト困っているという。  早雲は折角であるし、代りに蛍と泊まってやり、宿代を出すコトでこれを助けようと思うのだが、蛍が来ないなら1人で行ってもしょうがないので断ろうと思う……なぞと言うのだ。  人情に『厚い』……という程度では言葉が足りない。 いうなれば人情に『人一倍とんでもなく分厚い』蛍である。  この時点で、断ったら千堂が困るだろうと思うと断れない。 そして、最後のダメ押しに。  ……蛍の誕生日が、ある。  『別にお前が東京で暮らしたいというならそれも良かろうが。せめて、誕生日くらいは毎年と同じように、一緒に祝いたい』なぞと、あのやたらに弁の立つ早雲に、義理と人情を抱き合わせにして嘆じられてしまっては蛍に、イヤと言えるわけがないではないか。
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