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腹が立つ理由はもう1つある。
誕生日。
そんなものを祝う習慣などすっかり忘れて果ていた。
宗家として忙しかった彼の家には、法事や政経関係の集まりならば日々鬱陶しいほどあったが、『お誕生会』はなく。
父の病院で院長代行を務めた頃は、女性と付合うヒマそのものが皆無。そして、不測の事態から家や病院を失い、このマンションに移ったその時には。
女性の出入りはその名を覚えるのも面倒な程だったが、記念日を祝うなぞという洒落たイベントにつき合わされる事もなかった。
だから、早雲の連絡で蛍の誕生日と聞いて、彼は自分の目鼻が転げ落ちるような心地になったのである。
気にも留めていなかった。
しかし聞いたなら、それは、他ならぬこの「自分」が祝ってやりたかった。
なぜ、思い至らなかったと、どれだけ悔しい思いを噛みしめたかしれない。
それでなくても蛍は、なかなか「プレゼント」というものをさせてくれない相手であるのだ。
彼女は欲しいものは常に自分で買う。ねだってもらえた事など一度もない。たまに欲しいという事があるとしたら、それは食材か、でなければ、調理器具か掃除道具だ。
色っぽくない事、おびただしい。
……まァ、とにもかくにも、そのような訳で。
彼、蜷川俊太郎はいま、非常な煩悶とともにあるのである。
***** ☆ *****
さて、しかしこのあたりで、いい加減、彼自身についても注釈が必要だろう。
元、医者である。
しかし、今は何者でもない。
世捨て人のごとき無為の日々を送っている。
順風満帆であった彼の人生を引き歪ませた、さる事件から、右足を失い義足となり。さらに心の病で言葉まで失い、声を発する事ができなくなった。
そして、それにもかかわらず……ある特殊な方法でのみ、実は彼は相手に意思を伝える事ができる。
「人形」だ。
彼の持つ美しい5体の人形。
「椿」。「花火」。「海」。「メイ」。そして……「三日月」。
その人形を手にしたその時だけ彼は、他人と話す事ができる。
ただし、あくまで、その「人形」本人として、だ。彼でなく「人形」たちが、その言葉を彼の喉を借りて話すのだ。
……もっとも、だいたい誰でも一度その様を見たら、青ざめ、飛んで彼の前から逃げ去って行くので、この方法は、おおよそ、何の役にもたちはしないが。
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