第1章

2/7
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/7ページ
「猫は背中から落ちない」という噂を聞いたのは小学校に入って間もない頃のことだ。当時六歳だった私にはそれがとても信じられなかった。どんなときでも必ずきれいに着地するなんて自然の法則に反している気がしてならなかった。  お誂え向きに、私の家は当時猫を飼っていた。白い身体のところどころに黒の斑点がある猫で、名前は「まー」か「むー」か「めー」か「もー」のいずれかだ。マ行であったことは確かだが、「みー」ではなかった。そんな安直な名ではなかったはずだ。  まー(仮称)は庭石の上で寝転がって日向ぼっこをするのを趣味としていた。その姿はいつも無防備で、野生に生きる肉食生物の名残はかけらもなく、まして扶養者一族の末端にすぎない幼児の私に対してはことさら警戒心を欠いていた。  まーは簡単に捕まえられた。腕の付け根に手を回され、持ち上げられても、首を傾げるばかりだった。  探究心に唆されていた私は、肩に力を込め、手を離そうとした。だが、いよいよというところでまーの身体が跳ね返り、私に飛びかかってきた。「ふぎゃー」と叫んだのはまーでもあり私でもあった。  母がすっ飛んできてまーを引き離したとき、私の顔面は涙と汗と毛玉で汚れきっていた。   母はまーを叱らず、私を叱った。言葉が通じないまーよりも私に言葉を連ねるのは、当然と言えば当然なのだが、私は納得できなかった。私の実験は未遂に終わり、まーのひっかきは完遂されたのだ。不公平だと言いたいのを我慢して、唇の裏側を噛み締めていた。母のお説教は一切耳に残らなかった。再び庭石の上に戻ったまーが大きな欠伸をしていたのは今でもよく覚えている。  それから、まーとは遊ばなくなった。彼は私をひっかいてから三年後に急な病に倒れてそのまま還らぬ猫となった。  この事件以来、私は猫が嫌いになった。猫を模したキャラクターですら嫌いだった。この世に蔓延るおぞましい数の猫型キャラクターが私の嫌悪の対象となり、他の女の子がそれらを指して可愛いと褒め称えても素直にうなずけなくなってしまった。  神山君の話をしよう。  彼は私より一歳下であり、同郷であり、私とは別の高校の卒業生であり、私と同じ美大に通う後輩であり、イラストを専攻している私とは違って油彩画を専攻中であり、そしてもっとも忘れがちなことに今年の春からの私の恋人でもあった。
/7ページ

最初のコメントを投稿しよう!