第1章

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 京都駅から十五キロほど西、京都市と亀岡市との間に老ノ坂という坂がある。明智光秀が信長を討つことを心に決めた場所であることから、もう引き返すことができないことの象徴ともいわれる坂だ。  俺は今、その坂を下っている。  あのときには咲いていなかった桜も、今はもう満開だ。桜が咲き誇る夕暮れの中、俺は彼女に語りかける。 「なあ、佐藤」 「何?」 「『やっちゃん』のことだが……。俺は、多分、誰が『やっちゃん』なのか分かったよ」    *  久しぶりに踏みしめる京都の地。上司から、西へ転勤することがあるとは聞いていたが、まさか京都が俺の転勤先になるとは。俺の生まれ育った街へまた戻ってくることになるとは思わなかった。まぁ、近いうちに高校の同窓会もある。京都を出て二十年だ。全然変わってない奴も、思いっきり変わった奴も、そして残念ながらもう死んでしまった奴もいる。東京へ行ってから一度も顔を見てない奴と久しぶりに会うのも悪くない。ちょうどいいときに戻ってきたとでも言うべきか。  駅から見渡すと、俺がここを離れたときとは何もかも、とまでは言わないがそのほとんどが様子を変えていた。いや、忘れてしまっただけで実は何も変わってないのかもしれない。記憶にない建物ばかりだというのに、不思議と道の勝手は分かった。心が忘れても、体が憶えているのだろう。しばらく歩くと無為に散歩がしたくなった。二十年ぶりの京都だ。少し遠いが、また老ノ坂を歩いてもいいだろう。  老ノ坂は自宅からそう近くはなかったが、坂を抜けたところにある亀岡に住む友達とはよく遊んでいたから昔はよく歩いていた。年を取ると何度も訪れたことのある老ノ坂も昔とは違って見える。こんな風になっていたのかと初めての発見があることもある。昔この辺で何かに感動した記憶があるのだがそれが何だったか思い出せそうで思い出せないこともある。  懐かしい景色だ。 少しの間立ち止まり、腕を組む。そういえば、高校の卒業式の日に歩いたのも、この坂だったよな。感慨に浸っていると急に後ろから声がした。 「腕組んで考え事なんかして、何大人ぶってるの? 高橋」  しばらくの間聞くことのなかった、懐かしい声だ。後ろを振り向くと、見覚えのある顔をした人物が一人、立っていた。彼女が誰なのかは一目で分かった。 「大人だよ、佐藤」  彼女の方へ向かって返す。 「俺はもう三十八だ」
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