生物学という名の哲学

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 警察の聞き取り調査で、お姉さんが殺された場所付近で死亡推定時刻頃、遠野教授の目撃例が相次いだそうだ。死亡推定時刻は一昨日の正午頃。住宅街から近い小さな山中だったそうだ。その住宅街で遠野教授を見かけたという……。 「僕は君と一緒に昨日の朝、カナダの学会から帰ってきたところだ。アリバイもなにも、無茶が過ぎる推論だ。体が二つあるわけでもあるまいし」  教授の家庭は少し複雑で、遠野教授が生まれてすぐに両親が離縁。総合病院の院長でもある父親と十八歳の姉のいる家で育った。姉は遠野教授の世話に専念するという理由で高校を中退し、資産に余裕がある家庭で家事に専念していたそうだ。  そして、遠野教授の父は五年前に他界しており、病院は当時の副院長が引き継いでいる。  この情報は、メディアでも取り上げられており有名な話だ。 「そうですね。体が二つないと無理ですね」 「なんだい? まるで僕が体を二つ持っているかのような言い草じゃないか。残念ながら僕には人に隠れて自分の複製を作るほどの度胸は持ち合わせていないんだ」 「教授の口からヘタレ宣言なんて聞きたくなかったですが」 「いやいや、僕なんてヘタレで十分さ。ただただ自分の内側の世界で物事が完結してしまっている小さな男さ」 「思考に他人が介在する必要がない。だからこそ完璧な頭脳と言われているのでしょうね」 「僕はその呼び名は好きじゃないんだよ。僕は一つの種ではなくその中の個なんだ。あくまでね。僕が消えたところで代わりはいるんだ」 「いませんよ。教授の代わりなんて」  私は真っ直ぐに教授の目を見る。 「私が惚れたのは遠野連。あなただけです。他に代わりはいません」 「照れるじゃないか。やめてくれよ」  全く照れた素振りも見せてくれずに無表情でコーヒーをすする教授。いや、コーヒーをすするという行為が照れ隠しなのかもしれないと思えば多少は言葉通り照れているのかもしれない。 「そんなことより」  実験台にコーヒーを置くと遠野教授も真っ直ぐに私を見る。 「スーパーで僕の姉を見た……。何か言いたいことがあったからそんな言葉を導入してきたのだろう?」  教授には私の拙い会話術なんて全てお見通しのようだった。そう、言いたいことがあったのだ。
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