ナイフ

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――――  関係ないよ、そう言い切った久し振りに見た恵那の顔はどこか晴れ晴れとしていた。  分からなかった。なぜ彼女はこんな状況でも平然としていられるのだろう。妊娠が発覚したときの青ざめた彼女の姿はもう見る影もなかった。そもそも、彼女はそこまで明るい性格じゃない。普段は明るく振る舞っているけれど、それが虚像であることはさすがの俺でも気付いていた。  世界の終わりに吹っ切れでもしたのだろうか。 「その子が生まれたとしても、待っているのは不幸だけだよ」  誕生日が命日に……そんなことにもなりかねない。だから俺は消えるんだ。俺がいなければそもそも恵那のお腹の中に生命が宿ることはなかった。恵那はそのことで苦しむこともなくなるし、子供は絶望に溢れた世界を知ることもない。 「そんなことない」  どうしてそう言い切れる。  そもそも何で恵那はここに来た? 俺のことなんて顔すら見たくないはずだ。 「そんなことないよ」  もう一度、噛み締めるようにして、まるで俺の内にいる俺に語りかけるように恵那は言った。 “何で生まれてきたの??” “お前さえいなければこんなことにはならなかった”  俺の記憶の中で母親が言う。いや、もはや俺が俺に対して言っているだけなのかもしれない。  そんな残酷な言葉を恵那の中の子が聞いてしまったら……ぞっとする。  そんな未来は何としても回避しなければ。俺はナイフに力を込めた。一思いにやってしまおう。そうしたらもう全てが終わる。逃げ終わる。 「逃げないで」  やめてくれ。 「私も逃げないから」  やめてくれ……。 「私ね、考えたの。この子には……私には……」  それでも彼女はやめなかった。  圧倒的な絶望を前に気丈に立っていた。  そして彼女は知っていたんだ。  恐らくずっと前から。  俺が求めて止まなかったその言葉を。  この時この瞬間までとっておいたその言葉を。 「あなたが必要です」  何でっ、何でこんな時に。  こんな世界の終わりのカウントダウンの中で彼女は、俺が必要としてた言葉をかけるんだ。  何かが俺の中でガラガラと崩れる音がした。  俺の手の中からナイフが零れ落ちた。それは地面に鈍い音を立てて突き刺さった。  セミの鳴き声だけはいつもと変わらない。
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