第1章 名前の無い喫茶店

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 愛美はペンを置くと、空になったティーカップを手にして口へ運んだ。 「あっ・・・」と空になっている事に気が付き、思わず声を出して温くなった御冷を口にした。  大きく息をする。椅子の背もたれに寄り掛かり、海の方へと視線を送る。  いつしか、波の音が聞こえてくるような気がした。 「書きあがりましたか?」  佐藤店長の優しい声が愛美に向けられた。 「はい。ありがとうございます」 「いえ。これはお店からのお礼です。お疲れになったと思いますので、ぜひ、お飲みください」 「あっ、いいです。それに、私コーヒーはダメなんです」と愛美はティーカップの中身を見て答えた。 「これは大丈夫だと思いますよ。コーヒーのダメな方でも、飲めます。ただ、アレルギーのある方はちょっと難しいかも・・・」と佐藤は説明した。  愛美はコーヒーアレルギーでは無いが、幼い頃からコーヒーは苦手だった。 『何でコーヒーが苦手なんだっけ?』自問自答してみるが答えは思い浮かばない。  それでも、佐藤店長のお礼と出されたコーヒーの香りを嗅いでみる。  それは忘れていた物を思い出させてくれる香りだった。  香りにつられて一口啜ってみる。苦みは無く程よい酸味に後味にはキャラメル風味が口の中いっぱいに広がっていく。その甘さは愛美の気持ちを落ち着かせ、張りつめていた物を忘れさせてくれた。 『夕焼け・・・』  ふと愛美が呟く。 『この景色、どこかで見たような・・・』  愛美は気持ちの思い向くまま足を進める。  愛美の記憶に残っている景色は幼い頃の物だ。その時の記憶と今見ている景色が同期していた。 『夢・・・?なの』 しかし、愛美の足は何かに引き寄せられるかのようにある場所へと向かっていた。 『間違いない・・・。あの場所だ』愛美は足の向く方向で確信が持てた。それは、小さい頃に祖母と見た景色の場所だった。  そう思った瞬間、愛美は走っていた。アラフォーの自分にこんなにも早く走れるとは思っていなかった。それは子供の時と同じく、何かに夢中になっている自分の姿にそっくりである。  周りが茜色に染まった時、ようやく思い出の場所に辿り着いた。そこには一人の老婆が静かに黄昏た海を眺めていた。
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