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おんぼろの長屋の前で谷原さんは笑って僕に乙川で投げ捨てそびれた指輪を差し出した。
約束の印だと言って、さっきは捨てられなくて泣いた原因の指輪を差し出した。
春の夜風が彼女の髪の毛を揺らす。
4月とはいえ、日付が変わろうとしているような時間だ。
真冬のそれとは違うといっても冷たい空気。
どうせすぐに新しい恋を始めて、この指輪のことも忘れるだろうし昔の男のことも忘れるのだろう。
絶世の美人でもなければ人目を惹くような可愛らしさがあるわけじゃない。
だけど、凡人な男はそういう女の人が傍にいてくれるとホッとするものだと僕は思う。
だから、僕はその指輪を受け取った。
指から指輪が消え去ることで谷原さんの悲しみが少しでも軽くなるのならば。
殆ど接点のない後輩。
しっかりと言葉を交わしたのは今夜が最初。
そして、きっと最後だ。
人助けだと思えば。
谷原さんは社会人。
しかも、一人暮らしを始めた自立した大人で税金だって年金だって納めているのだ。
僕よりもずっとまっとうな人間だ。
そんなまっとうな人間が困っているんだ。
人生のモラトリアムを謳歌している僕で助けられるならお安い御用。
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