第1話 失態

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雨は、いつの間にか止んでいた。 街灯もまばらな、薄暗い夜の歩道。 すれ違う人が傘を畳んでいるのを見て、高山誠一はようやくそれに気づいた。 けれど手を動かすのも億劫で、誠一は、ポタポタと時折しずくを垂れる歩道の街路樹の下を、こうもり傘をさしたまま歩いた。 体はまるで、空気中の水分を全て吸い込んだかのように重く、気だるい。 傘もバッグも、出来れば体ごとこの場に置いて行きたい気分だった。 この3日間の慌ただしさで参ってるとはいえ、まだ24だぞ、と情けなく笑ってみる。 すぐ横の、濡れたアスファルトの上を走るシャーッという車の音が何故か霞が掛かったように遠くに聞こえる。 代わりに脳の奥に広がって来るのは、読経と木魚の単調な音階だ。 そして遺影の中から微笑む父の顔。 「あの万年仏頂面の不愛想な親父に、こんな笑顔の写真があったのは奇跡だったな」 通夜の席で小さくそう言うと、1時間前までは目を赤くしていた母も、「まったくだわ」とカラリとして言った。 父が病院のベッドで逝ってしまったのは4日前。 誰よりも頑固で実直で、威厳が服を着て歩いているような父だったが、内心ビビリで臆病であったことは、母も誠一も、8歳年上の姉も、よく知っていた。 だから本人が末期の胃癌であったことは、「残り時間は自宅で……」と病院に提案され、経口モルヒネ付きで退院した時も、面と向かって伝えることは無かった。 結局自宅で過ごしたのは1週間ほどで、突然の吐血の末再び病院へ搬送され、そのあとは10日と持たなかった。 だから、心の準備は出来ていた。 4日前に姉から危篤の電話を貰ったときも、誠一はあまり取り乱すことなくアパートを出ることができた。 静かに病院で最期を看取り、職場にも休暇を申請し、今まで反発ばかりしてきたが、長男としてちゃんとしっかり見送ってやろうと気持ちを整えた。 けれど。 亡骸を実家に連れ帰り、通夜の準備を整えていた晩、誠一を今までにないほど仰天させ、憤慨させたのは、紛れもなくその、“もう逝ってしまった父”だった。 母や姉が、慌ただしく葬儀の段取りを進めているあいだ、何気なく父の書斎に入った誠一は、卓上に1枚の手紙を見つけた。 やはり本人も、自宅療養に切り替わった際、自分がもう長くないと感じていたのだろう。
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