薄翅蜉蝣

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 呼び止められて、振り返るとそこには。  そこには────有り得ない人がいた。 「(あきら)」  熱を抱く風が鬱陶しく唸る夜。肌に纏わりついてくる真夏の暑さとは対照的な、涼しげな声が俺の名前をまたなぞる。  何が起きてるのか、まるで解らない。でも今は、考える時間も惜しい。  二度も呼ばれては、昔ながらの優しい微笑みを与えられては、俺も無視できなかった。 「姉、ちゃん……?」  精一杯、掠れた声を絞り出す。  その人は、俺が見失ったあの日と全く変わらない姿形で岩影に立っていた。桃の花が舞う水色の浴衣も、目に付くピンク色の帯も、小さな足を支える下駄も、花を(かたど)った(かんざし)も。何一つ変化がない。  徐々に湧く懐かしさが疑問に勝り、胸を打たれた。目の奥が急に熱くなる。視界を歪めてたまるかと、零れそうになる感情を瞳の中に留めた。  しかし、そのタイミングを見計らっていたかのように、小さな影は俺に背を向けて走り出した。 「あっ……待って!」  俺は咄嗟に追いかけた。  今は俺の方が速いはずだ。うっすらと滲んできた汗を無視して、これまでになく本気で走る。  だけど、遠い。距離が縮まらない。相手の緩やかな足取りに、俺の足は、何故か追い付けない。 「待ってよ、姉ちゃんっ……」  小さな背中を見失わないよう、必死に目と足を働かせながら、俺は過去への想いを巡らせた。
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