6人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ
呼び止められて、振り返るとそこには。
そこには────有り得ない人がいた。
「晃」
熱を抱く風が鬱陶しく唸る夜。肌に纏わりついてくる真夏の暑さとは対照的な、涼しげな声が俺の名前をまたなぞる。
何が起きてるのか、まるで解らない。でも今は、考える時間も惜しい。
二度も呼ばれては、昔ながらの優しい微笑みを与えられては、俺も無視できなかった。
「姉、ちゃん……?」
精一杯、掠れた声を絞り出す。
その人は、俺が見失ったあの日と全く変わらない姿形で岩影に立っていた。桃の花が舞う水色の浴衣も、目に付くピンク色の帯も、小さな足を支える下駄も、花を象った簪も。何一つ変化がない。
徐々に湧く懐かしさが疑問に勝り、胸を打たれた。目の奥が急に熱くなる。視界を歪めてたまるかと、零れそうになる感情を瞳の中に留めた。
しかし、そのタイミングを見計らっていたかのように、小さな影は俺に背を向けて走り出した。
「あっ……待って!」
俺は咄嗟に追いかけた。
今は俺の方が速いはずだ。うっすらと滲んできた汗を無視して、これまでになく本気で走る。
だけど、遠い。距離が縮まらない。相手の緩やかな足取りに、俺の足は、何故か追い付けない。
「待ってよ、姉ちゃんっ……」
小さな背中を見失わないよう、必死に目と足を働かせながら、俺は過去への想いを巡らせた。
最初のコメントを投稿しよう!