第九幕

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 翌朝、僕はかなり早くに目が覚めた。というよりほとんど寝付けなかった。寝てしまうと、あのうなり声が追いかけてきそうで。  モーニングまでの時間に少し外に出てみた。昨夜見た景色と同じ場所とは思えない、ごくごく普通の街並みだ。ほっと息をついて昨夜の電話ボックスに行ってみる。  きょろきょろと周りを見てみる。昨日のあのうなり声や、耳元でささやかれた声が空耳だったんじゃないか。そう思う自分と、やはり昨日聞いたことは実際にあったことだったんじゃないかという思いが心の中でせめぎあっている。だから確かめてみようと考えたのだ。昨日聞いたうなり声の主の痕跡がないか。  うなる声が聞こえたあたりをのぞいてみる。そこは低木が植えられていたのだが一部が不自然に凹んでいた。というか、切り取られていた。木の断面はまだきれいで、切られたのは最近のようだ。  辺りを見てみるがそれ以外に得に何も異変はない。木が切り取られているのは気にはなるが、やはり野犬かなにかがいたのだろうか。諦めてホテルに戻ろうとしたとき、道の石畳の隙間に何か滲みのようなものが目に付いた。  近寄って見てみるとそれは赤黒い点々とした滲みだ。石畳の表面には何もないのに、不自然に隙間の中にだけある。これはーー血?  人間のものかはわからないけれど、赤黒い滲みは確かに血に見える。  まるで道に広がった血を拭き取って溝の中にだけ血が残ったかのようになっている。  これは昨日の昼間にあっただろうか。覚えていないが、なんだか背中に氷を当てられたようなひやりとした感覚が走った。  そもそも血かどうかもわからないものに、なぜこんなにもどきりとさせられるのか。落ち着け、落ち着け。これはただの滲みだ。血がこんなところにあるわけもないし、あったってそれは動物の血の可能性が高い。  そうだ、昨日の奇妙な唸り声はきっと野犬か何かだ。野犬同士がけんかして出血することだってあるだろう?  そうやって自分に言い聞かせるが、もう一人の自分がそれを否定する。  血じゃないならなんだというんだ。  昨日のあの奇妙な気配が犬だとして、これがもし犬の血だとして、だれがその血をふき取ったんだ、と。  ダメだ、変な方向に思考が動いている。  あそこには、自分以外に人間がいたんじゃないかというほうに。  そしてその痕跡を故意に消したのではないかと。  
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