一階:めにはさやかに《抄》

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気づいたときには、植木鉢の受け皿から水が溢れていた。 「ああ、ごめんごめん」  慌ててじょうろを地面に置くと、受け皿の水をあけた。ここ数日曇りや小雨のすっきりしない天気が続いていたが、今日は朝からからりと晴れている。鉢植えがしおれていたのでじょうろを持ち出してきたのだが、これでは却って弱らせてしまう。  形見の鉢植え。何が植わっているのかは知らない。葉の数はまだ少なく、茎も細くて頼りない。果たして無事に今年の冬を越せるのだろうか。救いを求めるような気持ちで見つめているうちに、ふと違和感を覚えた。優しい黄緑色にいくつも混じる小さな粒。葉の色とも茎の色とも明らかに異質な濃い緑、緑がかった黒。黒い異物。頼りない茎。細い腕。見る間に痩せ衰えていった腕。骨と皮ばかり。血色の悪い腕に浮いたいくつもの青黒い染み。消せない痕。消えない点滴と注射の痕。取り尽くせない病巣。消えない。取れない。取り除かなければならないのに。  頭蓋骨の内側が煮えるような感覚。唸り声とも悲鳴ともつかない音を漏らしながら塀のそばにある蛇口のところへ走った。使い古しの歯ブラシを引っ掴んで駆け戻る。 「きれいにしてやるきれいにしてやるきれいにしてやるから死なせないからもう死なせないから」  憎き侵略者を排除すべく、私は歯ブラシを茎に向けた。 「ストップストップストップストーップ!」  背後から飛んできた大声にびくりと肩が跳ねた。振り返る間もなく、サンダルで地面を蹴る小気味良い音が近づいてきて、私の手から歯ブラシが抜き取られる。 「あーびっくりした。お父さん、それじゃアブラムシだけじゃなくて葉っぱまで取れちゃうよ。お水かけて洗い流しちゃえばいいの」  どうやらずっと玄関先で見守ってくれていたらしい。物思いに耽っているうちに水をやり過ぎてしまったのも見られていたかと思うと、耳たぶが熱くなった。 「そうなのか、ごめん母さん」  途端に彼女は顔を曇らせる。 「お父さん」  静かに語りかけながらしゃがみ込み、歯ブラシを持っていない方の手を私の肩にそっと置いた。ほっそりした指、なめらかな白い肌。濃紺の制服に映える緋色のスカーフ。 「お母さんは、亡くなったでしょ? 覚えてるよね?」
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