蜜柑の話

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「さて」マサキチさんは両手を叩いて言った。「お二人とも、開店の時間だぜ?」不思議なことに、その瞬間蜜柑の気配が弾けた。ひときわ強く香る柑橘。しかし、それも間もなく消え去った。魔法みたいに。 なにもなくなった両手。僕は恐る恐る閉じてみる。固くなった関節が、少し軋んだみたいだった。蜜柑の気配はもう、そこにはなかった。解けた魔法のせいだろうか。見慣れたはずの景色が歪む。あの時と同じブレたリアル。輪郭を滲ませた景色はしかし、僕を捕まえたりはしなかった。 カウンターの端にはマサキチさん。いつものように肩を丸めた姿勢。ひとつひとつピスタチオを剥いては並べていく。その光景がホントの現実かどうか。僕には判別しようがない。 ――カランカラン。店の扉が開いて本日の口切り、最初の客が訪れる。僕のリアルだ。顎を引いて姿勢を正す。バーテンダーの――酒場の司祭としての威厳。それはアルバイトでも見習いでも譲ってはならないポリシーだ。 「いらっしゃいませ」カウンターにはまだ、甘やかな柑橘が漂っている気がする。仄かに。そんな僕の気分が伝わったのか、マサキチさんが小さく目くばせをした。 ――彼の魔法はまだ解けてはいない。しかし、それは優しい魔法なのだ。きっと。
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