『水先案内人』

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『水先案内人』

第一章『三浦海岸』  九十歳を迎える祖父、常次郎(つねじろう)が検査入院の末、そのまましばらく入院することになり、孫の鈴木彦一(すずき ひこいち)夫婦が三浦海岸に移り住むようになって一週間が過ぎようとしていた。  両親を早くに亡くした彦一は、働きに出るまでずっと祖父の常次郎と、この家で暮らしていた。彦一の一歳年下の妻、美咲(みさき)と結婚をして十年。子どもには恵まれなかったが仲の良い夫婦として知られていた。 「常次郎さん、昨日は少し調子が良かったんだけど、ここ最近は食欲が減っちゃってるの」  美咲は、血の繋がらない祖父を親しみを込めて『常次郎さん』と呼んでいる。朝の身支度に忙しい彦一は、聞いているのか聞いていないのか、いつもの調子である。   「仕事帰りに上大岡に寄るけど、美咲の物で何か持ってくるのはあるか?」  七年前に購入した上大岡駅近くの彦一たちの自宅マンションはそのままにして、美咲を連れて、三浦海岸の彦一が慣れ親しんだ常次郎の家にやってきた。 「じゃ、そろそろ行くわ、爺ちゃんによろしくな」  京急の三浦海岸駅は三浦半島のほぼ南端に位置し、彦一の会社のある品川駅までは、横須賀駅、上大岡駅、横浜駅を経て一時間ほどである。上大岡の頃よりも倍近くの時間が掛かるが、京急線一本で通勤できることもあり、さほどの不満も持ってはいない。むしろ入院中の年老いた常次郎の近くに居ることに安心を感じていた。  彦一の父親は、彦一が小学生の頃に、母親は彼が大学生の頃に亡くなった。常次郎の妻、つまり彦一の祖母も既に亡くなっており、一人っ子である彦一にとっては常次郎だけが、唯一の直系の家族だった。  三浦海岸の家から駅へ向かう途中、小学校の同級生で、今でも時々連絡を取り合っている友人の佐原真也(さはら しんや)と一緒になった。 「常次郎さん、心配だな」  彦一の同級生たちも『常次郎さん』と昔から呼んでいる。 「真也は、京急蒲田で乗り換えて羽田空港だよな」 「普段はそうなんだけど、今日は品川に用があってな。一緒に品川だ。あ、ちょうど良かった。スズヒコ、よく帰ってきてくれたよ。相談したいことがあったんだよ。『特急』を見送って、次の『ウィング号』で行こう。ウィングチケットはオレがおごるから」  彦一は、同級生から鈴木彦一を縮めた「スズヒコ」と呼ばれている。image=506320900.jpg
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