18 深夜、ファストフード

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 昔、ライブ前には決まりごとがあって、メンバーで円陣を組むのとはまた別にさゆりとこっそり二人になって、それは時間にすれば十秒足らずだが、時として舞台の袖で、控室で、裏口につながる廊下で、誰もいない場所でさゆりが歩の手を握るのだ。  そして囁く。  魔法の呪文をかけるように。 『歌も、声も、うちは歩の作る音楽が大好き』  さゆりの背中にそんなかつての儀式を思い出しているとエントランスの自動ドアを開けたまま、そこでさゆりの足が止まる。  歩を振り返り、神妙な顔で言った。  「どうした……」 「うち、歩に謝らんならんことがある」 「……え?」 「この五年、デビューしてからのエッジワースの歌を、うち全く聴いとらんちゃ。どんな歌を出しとるかも知らんし、わからん……」  もちろん街を歩いていて偶然耳にしたことはある。  しかし、そんな時は走って逃げたと言った。 「ファン失格やちゃ」  泣きそうな顔でそう言うさゆりに、歩は、なんで、と言いかけてやめた。  理由など聞くまでもない。  頭を殴られた気分だった。  どんな別れ方であれ、どんな振られ方であれ、さゆりはいつもエッジワースのことだけは見ていてくれると思い込んでいた。  そう、信じていた。 「だから……」  歩はつぶやいた。  だから、今日のライブにも消極的だったのか。  しかし、再び歩に向きなおったさゆりは、 「でも、今日のライブは行く。絶対行くちゃ。こんな機会、この先もうないもん……」 「そんな……無理しなくてもいいよ。俺が無理やり……」 「ううん。聴かせて。聴きたい。だって、うち……」  困惑に揺らぐ歩の瞳を、さゆりの真剣なまなざしがしっかりと捕まえる。 「歩の歌も、歩の声も、歩の作る音楽が……好きなんはほんとやち」  最後に、楽しみにしとる、と明らかな涙声で言って、今度こそさゆりはマンションの中に消えた。
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