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「オレの名前? どうしてオレの名前なんか――」
「お名前を」
少年はためらってから、小さく答えた。
「八季――八季翔(やき しょう)です」
「八季…?」
電話の相手が一瞬、沈黙する。しかし、すぐに気を取り直したように質問を続ける。
「場所はどこになりますか」
「東五反田一丁目――ママレードって店の隣の路地を入った先の袋小路です」
「わかりました。いま救急車両が向かいます。八季――さんはそこでお待ちになって――」
しかし、少年は男の声を最後まで聞くことなく電話を切ると、いても立ってもいられないといったように再び路地へ駆け込む。するとそこには先ほどよりも濃くなった霧が、彼の行く手を阻むようにゆるやかに流れていた。
先の見えない路地に少年は一瞬たじろぎ、それでも必死に目を凝らしながら、一歩ずつ慎重に足を進める。誰もいるはずがない――けれどこの霧の中に誰かが潜んでいる、そんな感覚が彼を襲う。
「美咲?」
少年は声を上げる。頭がくらくらするような血の匂いがあたりに漂っている。ぴしゃり、小さな音で、生温かい血だまりを靴が跳ねた。熱を持った血の匂いが一段と濃くなり、少年はぎょっと立ちすくむ。
血だまりを踏んだ――ということは、ここが彼女の倒れていた場所だということだ。少年は思考を巡らせた。確かに同じ場所に戻ってきたはず、それなのに倒れていたはずの彼女はどうしてここにいないんだ?
ひゅう、と言葉にならない吐息を残して、彼女は少年の目の前で息を引き取ったはずだった。微かに脈打っていた心臓は止まり、彼女は死体となってここに横たわっていたはずだった。それなのに、いない。死んだはずの彼女が、いない。
美咲、もう一度上げた声は掠れていた。彼女はどこへ行ってしまったのだろう、いや彼女は死んだのだ、死体がどこへ行くはずもない、けれどここにあったはずの死体はない、それなら彼女はどこへ――堂々巡りの疑問が少年の頭に回り続ける。そのとき、カーテンが引かれるようにさあっと霧が晴れ、視界が戻る。その霧の向こうに見えたものに、少年は思わずあっと叫んだ。
――闇ヨリ、此方ヲ凝視メル。
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